代表的日本人・西郷隆盛編

こんにちは。Legend of Books の熊三です。

日本が欧米列強に肩を並べようと近代化に邁進していた明治時代。日本の精神性の深さを世界に知らしめようと、英語で出版された名著「Representative Men of Japan 代表的日本人」であります。西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮という五人の歴史上の人物の生き方を通して書かれた日本人論です。「武士道」「茶の本」と並んで、三大日本人論の一冊に数えられています。

現代に通じるメッセージを読み解き、価値感が混迷する中で目標や志(座標軸)を見失いがちな私達の現代人が、よりよく生きるための指針を探し出す手がかりとなり得る名著だと思います。今回は代表的日本人の一人西郷隆盛を中心に紹介したいと思います。

「代表的日本人」読書のポイント

  • 五人の偉人伝として読まない

代表的五人の日本人と対話するように読む。

  • 意中の「ひとり」を探せ

五人全員を等しく読むのは困難である。一人一人向き合い対話しながら読書するのを勧めている。例えばリーダーの素質を磨きたいと思うのであれば上杉鷹山と対話してみたりと自分の立ち位置と合う人物と長くつきあっていくといいのかもしれない。

  • ライフステージが変わるたびに読む

読者とともに育って行くのが名著である。

学生や死を前にした人であろうとも読むことで新たな発見ができる。 

ではここから代表的日本人の一人西郷隆盛を描く。同じ幕末、明治の世を生きた西郷隆盛内村鑑三、一方の西郷は江戸城無血開城を実現し明治維新に大きく貢献した。西郷なくして革命はなし得ない。そんな西郷隆盛は内村にとって同時代の英雄であった。そんな内村はまるで聖書にでてくる聖人のように描いて西郷が持つ純粋の意志力との関係が、深く道徳的偉大さを代表的日本人で際立てた。またわが国の歴史からもっとも偉大な人物をあげるとすればためらわずに太閤豊臣秀吉と西郷を選ぶと内村は言う。

西郷隆盛〜新日本の創設者


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1827年に鹿児島の町に生まれる。

(その2年後に名高い同志大久保利通が生まれる)西郷の家は、語るに価するほどの名門ではなく、薩摩の大藩にあっては、わずかに「中等以下」に位置するにすぎなかった。

六人兄弟の長男で動作ののろいおとなしい少年で仲間の間では間抜けで通っていた。しかし遠縁のひとりが西郷の目の前で切腹をする光景を目撃し少年の魂にはじめて義務の意識が芽生えた。若者は成長すると大きな目と、広い肩幅を特徴とする太った男になった。筋肉隆々とし相撲はお気に入りのスポーツでありました。中国思想の陽明学や仏教での禅の思想に関心をいだきヨーロッパの文化には全く無関心であった。また暇ができればたいてい好んで山中を歩きまわる。その習慣は一生続いたのであります。日夜、好んで山中を歩き回っているとき、輝く天から声が直接くだることがあったのではないでしょうか。静寂な杉林のなかで「静かなる細い声」が、自国と世界のために豊かな結果をもたらす使命を帯びて、西郷の地上に遣わせられたことをしきりとささやくことがあったのであります。そのような「天」の声の訪れがなかったならどうして西郷の文章や会話のなかで、あれほどしきりに「天」のことが語られたのでありましょうか。のろまで無口で無邪気な西郷は自分の内なる心の世界に籠もりがちでありましたが、そこに全宇宙にまさる「存在」を見出しそれとのひそかな会話を交わしていたのだと内村は信じた。

静かなる細い声(Still Small Voice)とは

旧約聖書 列王記の本に出てくる一説で預言者に神が語りかけるときの声。

「天」(Heaven)とは

「天」とは神そのものではなく、空(Sky

)ともまた違う。「天」には方向など定まっておらず、大いなるものというべきであろうか、西郷はそんな「天」としきりに対話したのではないだろうか、

天の命と日本の開国

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「天」の命を聞く人、西郷隆盛の章は以下のようにはじまる。1868年の明治維新

日本が「天」の命をうけはじめて青海原より姿を現したとき、「日の本よ、なんじの門のうちにとどまれ、召し出すまでは世界と交わるな」との「天」の指図がありました。

長い鎖国の時代を経て開国に至ったのも天によるものと考えていた内村は、鎖国を非難する外国人を浅はかだと訴えた。世界との交通が比較的開けていたインド、インカ帝国、清国が次々とヨーロッパの欲望の餌食となった、なので鎖国の門を簡単にも開けようものなら凶器をもった強盗に侵されしまうのだ。鎖国を避難するものは戸締まりが厳重な家に入ろうとする強盗がその家を非難しているのと同じであると述べた。

「進歩的な西洋」の無秩序な進歩の抑制

「保守的な東洋」は安逸な眠りから覚まされた。

日本が目覚める前には、世界の一部には互いに背を向けあっている地域がありました。それが日本により、日本を通して、両者が顔を向かい合わせるようになりました。ヨーロッパとアジアとの好ましい関係をつくりだすことは、日本の使命であります。今日の日本はその課せられた仕事に努めているところです。

貪欲に対しては、かたくなに門を閉ざしていた国が、正義と公正戸に対しては、自由にみずから開いたのである。

天命を待つ

待つという動詞に注意して読む

西郷は、待つ人だと評されるが、その「待つという動詞」は単に止まって待っているのでなく、なにかに備えて準備することであり、時間をかけて見識を深めて時機を待つという事である。やるべきことをやる時に「待つ」ことが重要だと西郷は気づいたという。そんな内村の1つ1つの動詞のなかに奥行が見えてくるのだと言う。無欲で控えめ、常に何かを待っていた西郷の姿を内村は絶賛した。

西郷は口論を嫌ったのでできるだけ、それを避けていました。ある時宮中の宴会に招かれ、いつもの平服で現れました。退室しようとしましたが入り口で脱いだ下駄が見つかりませんでした。そのことで誰にも迷惑をかけたくなかったので裸足のまま、しかも小雨のなかを歩きだしました。城門にさしかかると門衛に呼び止められ身分を尋ねられました。

普段着のまま現れたので怪しい人物とされたのでした。「西郷大将」と答えました。しかし門衛はその言葉を信用せず門の通過を許しません。そのため西郷は、雨の中その場に立ち尽くしたまま誰か門衛に証明してくれるものが、出現するのを待っていました。

西郷の私生活についてある人の証言によると

私は十三年間一緒に暮らしましたが一度も下男を叱る姿を見たことがありません。布団の上げ下ろし、戸の開け閉て、その他身の回りの事はたいてい、自分でしました。西郷は人の平穏な暮らしを決してかき乱そうとしませんでした。ひとの家を訪問することはよくありましたが、中の方へ声をかけようとはせず、その入り口に立ったままで、だれかが偶然でてきて自分を見つけてくれるまで待っているのでした。

ひとの家とは

西郷にとってひとの家とは時代であり、藩、それは薩摩藩であり、明治の新政府、仲間にも置き換えることができ自分を必要とされる時を待っている。誰かを待っているその背景には「天」という言葉が宿っている。誰かが偶然見つけてくれるということは「天命」であるということ。

そして、西郷ほど生活に無欲だったものはいないという、閣僚のなかで最有力者でありながら普通の兵士と変わらぬ外見、住居はみすぼらしい建物で、どこでも下駄を履き、宮中の晩餐会であれどこへでも常に現れました。身の回りのことにも無関心な西郷は財産にも無関心であった。財産の大部分は鹿児島ではじめた学校の維持費に用いられた。また贈り物は一切受け取らない西郷であるが趣味である犬の贈り物は熱く感謝して受け取ったという。西郷の犬は、生涯の友であった。

無私の機会

「機会には二種ある。求めずに訪れる機会と我々の作る機会とである。世間でふつうにいう機会は前者である。しかし真の機会は、自生に応じ理にかなって我々の行動するときに訪れるものである。大事なときは、機会は我々が作り出さなければならない

敬天愛人」とは

天をうやまい、人を愛することで、常に修養を怠らず、天をおそれ敬い、人を愛する境地に到達することが大切であるということ。西郷隆盛座右の銘として知られています。

彼の生き方を通して、私利私欲なく生きるときに開かれる強さ自己を超越した大きな存在である魂に寄り添う生き方を求めた。とりわけ「西郷隆盛」の章には内村自身の思想が色濃く反映している、明治維新の立役者であり勇猛果敢さが強調される西郷だが、実は、徹底して「待つ人」だった。真に必要に迫られなければ自ら動かない。しかし一度内心からの促しを感じたなら、躊躇することなく決断し動く。それこそが西郷という人物の真髄だった。それは、折にふれて、「自己をはるかに超えた存在」とそれは天でありまたは己魂の会話を続け、そこに照らして自らの生き方を問い続けた「敬天愛人」という信条から発するものだった。

朝鮮問題・征韓論

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東アジアの秩序を守るためにも時に決して理解のなし得ない争いを生んだとしても、東アジアの征服という目的は当時の世界情勢からして必須のものだったという。日本が、ヨーロッパの列強に対抗するために、所有領土の拡張が必要であり西郷には自国が東アジアの指導者であるという使命感があった。西郷は朝鮮と話をつけるため自らを首席大使に任命するように訴えそれが叶うと子供のように喜んだという。しかしながらちょうどその時、岩倉が大久保や木戸とともに世界を視察し文明が幸福をもたらす実状を見てきたため戦争など考えてなかった。朝鮮使節征韓論」が撤回され、そのやり方に対して人前で怒りの感情を出さなかった西郷も激昂し、閣議の席で辞表を叩きつけた。「文明とは正義の広く行われることである、豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」西郷の言う文明はほとんど進歩を見せなかった

「情のもろさ」・ラストサムライ西郷隆盛の人間らしさ


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入水自殺未遂

西郷はある時、幕府から負われる身である友人であり僧である月照に保護を頼まれました。守りきれないと案じた西郷は、共に死ぬことを提案した。二人は入水自殺を試みた。西郷は奇跡的に一命をとりとめたが、月照は息をひきとった。

友人にたいする人情と親切の証としてみずからの命を惜しまなかった。

江戸城無血開城

勝海舟と現在の東京都にある愛宕山で散歩をしていた。眼下に広がる壮大な都市を見て西郷が勝に問う「我々が一線交えるとこの罪のない人々が我々のせいで苦しむことになる」と伝え、徳川将軍は武器を手放し城を天皇無血開城することに繋がったのでした。

西南戦争 謀反人としての西郷隆盛

桜島

新政府は腐敗していき反乱を企てるものが現れ始めた。その企ての成否は西郷がその反乱に自身の名を貸し影響を与えるか否かでした。困った人々の哀願の前には無力に等しく自己の命をその反乱に差し出し三万の士族を結集させたです。そうして国内最後の内戦である西南戦争が勃発したのでした。西郷自身も時の政府に強い不満はあったにしろ、彼ほど分別のある人間がただの怨恨だけで戦争を始めることは想像し難いのである。反乱は西郷の生涯における大目的が挫折した失望の結果なのかもしれない。わずかの可能性ではあるが成功すれば生涯の目的が果たせると思い西南戦争に臨んだのであろう。1877年9月山県有朋率いるかな官軍の総攻撃が城山に向かって開始され一発の銃弾西郷の腰を打抜き倒れた。遺体は官軍の手におちました。「無礼のないように」と敵将が叫び「なんと安らかな顔のことか」と別の一人が言った。敵味方全体が悲しみにくれ、涙ながらに葬りました。もっとも偉大な人物が激動の世をさった。ラストサムライが日本から去ったのです。

無私は「天」に通じる

天を相手にする

「天を相手にせよ、人を相手にするな、すべては天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足を省みよ」

 

「天はあらゆる人を同一に愛する。えに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない」

「天」には真心をこめて接しなければならなずさもなければその道を知ることはできない。

西郷は人間の知恵を嫌い、すべての知恵は人の心と志の誠によって得られるり。心が清く志高ければ、たとえどんな状況下でおいても乗り越える事ができる。 

「誠の世界は密室である。そのなかで強い人はどこであっても強い」

不誠実とその傲慢たる利己心は人生失敗の大きな要因であると西郷は語る。

「人の成功は自分に克つにあり、失敗は自分を愛するにある」

八分どおり成功しながら残り二分のところで失敗するのは成功がみえると自己愛が生じ、慎みが消え、楽を望み、仕事を厭うから失敗する。

なにかの行動を申し出るときは「我が命を捧げる」気持ちで人生のあらゆる危機と向き合う必要がある。

「命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず」

世の中でもっとも扱いにくい人でありこのような人こそが人生の困難と向き合うことができる人物である。そしてそれが国家に偉大な貢献を果たす。「天」を信じることは己を信じるということ

 

西郷の詩文

私に千糸の髪がある

墨よりも黒い

私に一片の心がある

雪よりも白い

髪は断ち切ることができても

心は断ち切ることができない

 

道は一つのみ「是か非か」心は常に鋼鉄

貧困は偉人をつくり 功業は難中に生まれる

雪をへて梅は白く 霜をへて楓は紅い

もし天意を知るならば、誰が安逸を望もうか

 

地は高く、山は深く

夜は静かに 人声は聞こえず

ただ空を見つめるのみ

 

まとめ

日本史上で西郷ほど志が高く、彼の道徳心は自然と一体になりえた人物は存在したのであろうか。

西郷ほど一人の人間として民から仲間たちから慕われた人間は過去から現在に至るまで誰一人いなかったのではないでしょうか。歴史にもしもはないが、征韓論が可決し、西郷自身が朝鮮国と交渉できたのであれば、和魂漢才に徹した西郷の道徳心、情け深さを持って、当時の欧米列強の植民地化が進んだ東アジア情勢の中で西郷隆盛に匹敵する徳を持った人間は存在したのであろうか、時に強行を辞さない勇気を持った人間はいたのであろうか、東アジアの秩序はいい方向に変わっていたのではなかったか、またどうすれば西南戦争を回避できたのかと私自身空想にふけることもあります。内村自身彼と同時代を生き、交わりさえなかったものの、偉大なる敬意を払い「代表的日本人」の初頭より日本の聖人ともいえる西郷を西洋に紹介したのであろう。「天を相手にしろ」と西郷自身は言う、それは誰も見ていないところでの分別ある行動ができているからどうかであろう、そこから強固たる魂を養い、その魂と自問自答をすることで己を知り、自分の意見を持ち考えて、次の行動が最善だと判断すればそれは正義なのかもしれない。以前に紹介した新渡戸稲造の武士道における武士の精神、美徳をそのまま写したのが西郷隆盛である。「天を相手に」という言葉を胸に刻み一瞬一瞬において実践していきたい。