新渡戸稲造 武士道

すこんにちは。Legend of Books の熊三です。

今回は日本人の考え方の原点を紐どき、世界に日本人の美徳、正義を知らしめた新渡戸稲造の代表作である「武士道」を紹介します。

新渡戸稲造というと多くの方々は、2007年まで発行していた5000円札肖像画を脳裏に思い浮かぶのではないでしょうか?またハリウッド映画の大ヒット作「Last Samurai」の主役を演じるトム・クルーズも新渡戸の原作のアメリカにて発行されたBushido を参考にして役に徹したそうです。

新渡戸稲造の生涯

1862年現在の岩手県南部藩士の子として生まれる若年の頃より海外に興味を抱き「太平洋の架け橋になりたい」と夢を抱きました。

アメリカ・ドイツと留学を経て、留学時には西洋の古典を読み漁った。帰国後、農政学者として札幌農学校をはじめ多くの学校で教壇に立ちました。アメリカ人女性と結婚し、農学校を休職して米国西海岸のカリフォルニア州で転地療養した。

この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本及び日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年に『武士道』の初版が刊行した。やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。後の1920年には国際連盟事務局次長を務めました。そこで世界の平和に尽力した。

Bushidoの発行の経緯

  • 海外からの日本人の印象は野蛮なものであった

当時海外から切腹や人切りが日常にある野蛮な国として知られていた。幕府による封建制度のもと、どの国々よりも平等に保たれているとされ日本ユートピア論が出されたり、金の国ジパングと海外から完全に誤認されていた。

  • 日本人の道徳のあり方について

新渡戸がドイツに留学した際、ある学生に問いかけられた。日本は宗教教育がないなかでどのように道徳を学んでいるのかと新渡戸は戸惑いながら答えるも腑に落ちなかった。

またアメリカ人妻にも日本人の魂について、行き過ぎた礼儀正しさについてよく問われた事でBushido 出版の経緯となった。

そこで日本人の美徳は世界に通じる普遍的なものであり新渡戸は西洋の人々にわかりやすく伝えるためギリシャ神話、シェークスピアの題材を引用し、類似点と比較しつつ武士道を紹介しました。

武士道とは

そもそも武士とは

10世紀頃から出現した用心棒や戦闘を職業とする集団で日本にて武士が長い間支配階級に位置した。武士の生き様として個人は国家のためのもしくはその正当な権威を掌握するものの為に生き、また死なねばならなかった。

  • 武士道とは戦士が日常生活の中で行う義務・掟

武士道は西洋におけるノブリス・オブリージュ(仏・高貴な身分に伴う義務)だと述べた。

  戦う者としての武士が明日をも知らぬまさに無情の 現実の中で自覚してきた人間の生き方でありまたは死に方であった。武士のいう死の覚悟とは、仏教の説く悟りそのものとは違ってあくまで世俗の中での心の持ち方であり、戦闘に従事する者の心構えである。それは一面では生命への執着を残しながらも死に直面したときにうろたえない心がまえである。こうした死の覚悟をなしうる根底には、無常観が働いていることはいうまでもない。

しかし彼らは無常を感じながらも、名や恥といった名誉をことさら重んじ、主従関係を中心として徳目を養い、人間関係を否定することはなかった。むしろ、日常的な雑念や欲望を無常観によって夢・まぼろしと受け止めることによってより純粋におのれの名誉や主君のために生き死ぬべく心がけたのである。

武士は世間からの注目を集める存在

江戸時代になると、武士の地位は最上位に位置した。それは国民の10%にしか満たない役職であり日頃から注目の的、その生き様が庶民の手本となった。そこで恥をさらさないよう、自分自身も名誉を得るために下記の徳目を養う必要があった。

義(勇・智・仁)・礼(信・仁)の徳目の先に

忠(名誉・歴史に名を残すために)

 戦場で主君の目の前で討ち死にすることが一番の武士にとっての名誉であった。死を恐れず命をかけて忠義を持って主君を守るために義・礼を中心に下記の全ての徳目を実行する必要がある。

 義とは不正を憎む精神・正義感である。義は人間の骨格とも例え、人は才能があっても義がなければ世の中に立つことができない。義があれば無骨で不調法であっても武士たる資格はある。まさしく義を養うことが武士にとって理想の姿であった。しかしながら頭の中で義を理解できたとしても、勇(気)を持って行動する必要がある。己の正義感を人前で発揮することは勇気ある行動が必要となる。(英)智を用いて人間の洞察力を養的確な判断力を養う。さらにを持って武士の情けで慈悲の心を持って政治を行うことで忠義を果たす。

 礼は社会的な地位、秩序に対する従順さである。をもって誠実であることを指す。

また、「武士に二言はなし」とは武士道の信条から生まれた言葉であります。 

「喜怒色にあらわさず」感情は顔に出さず何があっても動揺せず平常心を保つことで武士の美徳が磨かれる。

名誉とは

 上記の徳目を日頃の努力によって養い、主君に忠義を果たすことにより武士にとって名誉となる。名誉は人生の最高の善として貴ばれた、富や知識だけでなく、名声こそが青年の追求すべき目標であった。大阪夏の陣では、主君の目の前で戦死をとげることが名誉とされ、武士たち獅子奮迅と戦った戦死は最大の功名ともなった。これ以降江戸時代に入ると封建制度の下、平和の世が続き切腹での死が武士の理想の罪滅ぼしとなった。 名誉は武士にとっての面目、外聞であり一番の功績である

桜は武士道

ヨーロッパ人はバラを好む。

鮮やかな色彩と濃厚な香り、バラはその美しさの下にとげを隠し持つ。朽ち果てる時は生に執着するかのごとくこの屍を枝の上にさらす。

日本人は桜を好む。

淡い色彩とほのかな香りその美しさの下には刃も毒も隠していない。散り際の潔さはまさに死をものともしない。

 

切腹 名誉たる日本人の責任のとり方

世界が驚愕した武士のしきたり。

 切腹は武士にとって名誉ある責任のとり方であり新渡戸は決して野蛮たる行為ではないと紹介しました。ここで切腹がどのように誕生したのかと歴史を紐どいてみたいと思います。

 時は平安時代の末、壇ノ浦の戦いは平家の滅亡を決定づけた源平合戦のクライマックスであります。敗色が濃厚となった、平家側の平時子安徳天皇を抱き上げ三種の神器とともに入水して自ら命を絶った。

 その後、源義経の平家の滅亡、公家達により認められた功績に兄の源頼朝は妬み、謀反の罪をかぶせた。義経奥州藤原氏を頼って岩手県にある平泉に亡命するも頼朝に売られ、とうとう死に追い詰められた。逃げ場を失い、武士たる者は潔く切腹するものだとみずからの腹を切ったことで源義経が起源とされる。また後世の千利休切腹赤穂浪士47人の切腹は彼らにとって名誉たる上での死に様だったのであろう。さらには武士が刀や槍などの魂といえるものを置き忘れなどあった場合は切腹に値するほどの過失ともなりました。

 鎌倉時代以降、切腹武家社会の確立とともに定着し江戸時代末期の大政奉還がなされるまで切腹は武士にとって名誉たる死でした。明治の新政府の制作の下、切腹と敵討の制度は刑法法典の発布とともに存在理由を失った。もはや美しい娘が姿を変えて親の敵の跡を追う、ロマンティックな冒険を耳にすることはなくなった。と新渡戸は無念の内を明かした。

腹の中を見せることができる戦士としての度量

切腹は法律上ならび礼法上の一つの制度であり、それは中世に発明された武士が罪を償い、過ちを詫び、恥を免れ、友を救い自己の誠実を証明する行為であった。

また、新渡戸は軽々しく死ぬことで名誉を手に入れようとした武士を批判した。

「命は廉価だった、それは世間の名誉の基準で測っても安いものであった。」

そんな軽々しく刀を抜いた武士たちに新渡戸は生きることは死ぬことよりも難しいことがあると言及した。

「死を軽んずるのは勇気の行為である、しかし生が死よりもさらに恐ろしい場合にはあえて生きることが真の勇気である」

武士の本音…死への恐怖はある

武家諸法度では喧嘩両成敗が制定されており相手を切ったら自分も切られる、刀を抜いたら相手を切るとき。喧嘩を買うにも命がけ、売るのも命がけであった。そこで常に死の恐怖と向き合わせていた。また切腹をすると財産の没収など免れるものの妻などは未亡人となりそのことも武士は危惧していた。

日本人の精神は異常なのか?

「私が望むのはしばしば冷酷なあるいは笑いと憂鬱のヒステリックな混合であるかのような外観を呈し、時には正気さえ疑われることすらある。日本人の心の働きの真相を示す事ができる」

※呈する ていする 示す、明らかにする

特に下記の行動に対して外国人に不快感を与えているという。

1.恐ろしくおかしいほど遠慮をする日本人。

ある時、傘を持たない外国人女性が傘を指した日本人の友達と偶然出くわし、会話をはじめると日本人は傘をしまいずぶ濡れになりながら話したという逸話がある。

2.度が過ぎるほど謙虚な日本人

贈り物をするときなぜつまらないものを送るのかと自分が差し出す贈り物を過小評価する日本人、それと相容れて他の国々の人々は素晴らしいあなたにふさわしい贈り物を用意したと箔をつけて渡す。日本人は相手が中心として海外の人々は自分を中心に贈り物を贈ると新渡戸は説いた。 

3.謎のほほえみ、泣いているのにほほえみ

日本人は不幸に遭い、先ほどまで泣いていたにもかかわらず、目を赤めながらも笑顔で応対する日本人は異常だというまた日本人が苦痛に耐えかつ死に対して無頓着なのは神経が鈍感だからという人もいた。それに対して新渡戸は説いた。

「私たちにあっては、笑いは逆境によって乱された心の平衡を回復しようとする、努力を隠す幕だからである、悲しみや怒りの均衡をとるもの」

日本人はどの民族に劣らないほど優しい

本当の礼とは他人の気持ちを思いやる心の表れである「礼は私たちが泣く者とともに泣き喜ぶ者とともに喜ぶことを要求する」と新渡戸は世界の読者にわかりづらい日本人の本当の気持ちを伝え日本人は克己をもった美徳と民族であると強く訴えたのであった。 

克己 己に打ち勝つ

自分の感情を抑えて悲しみ、苦しみを耐え忍んで己を克服する他人に自分の感情を見せない、自己抑制、理念に自分をささげる精神。

武士道の光と影・日本の未来

武士道は日本の近代化の原動力となった。

明治以降、封建制度の下、ガラパゴスな状態であった日本は類を見ない速度で欧米列強と肩を並べるほどに成長したのは武士道の精神が宿ってイたからであった。「劣等国と見下されることを容認できない、名誉の感覚、それこそがもっとも強い動機であった財政や産業上の考慮は改革の過程において後から目覚めたのである」こうして純粋で武骨な精神を持った日本のみが近代的な西洋の文化を自発的に吸収したためアジアで随一の発展を遂げたのである。

太平洋戦争を迎えると武士道の精神を兵士に注ぎお国のために未来の子どもたちへ日本を残すために多くの青年たちの命が無惨にも散っていった。

戦後は民主主義の時代となり、武士道の精神はGHQより危険分子とされ教育などが見直され、忘れ去られて行くも、日本人の心底にはいつまでも廃ることのない武士道、自己犠牲の精神が健在した。主君やお国に変わり会社に忠義を尽くした結果、一度は焼け野原となった日本が高度経済成長を引き起こし80年代後半には世界第一の経済大国となった。しかし90年代になると武士道精神に影がかかってきたのであるインターネットの発達によりグローバル化が劇的に進み、時代を変化させた。ものづくり大国であった日本はこの勢いに圧倒され経済も低迷し失われた20年を迎え今やアメリカや中国に経済覇権を牛耳られてしまった。

行き過ぎた完璧主義と謙虚さ(羞恥)の美徳が悪徳となった…例えば英語学習者の多くは完璧を求め、完璧でなければ恥をかくと羞恥がまさりアウトプットを行わず、成就せずくすぶっている学習者も少なくはないのであろうか。また空気を読めという同調圧力の下、自分だけが周りから突出することを恐れてしまう。度の過ぎた武士道精神は現在の国際社会では通用しないかもしれないが新渡戸は「完全に絶滅することが武士道の運命ではありえないその光と廃墟を超えて長く生き延びるであろうその象徴となる花のように四方から散った後もなす人生を豊かにするその香りで人類を祝福するのであろう」と日本人にとって武士道は永久不滅の美徳であると未来の我々に残した

古き良き武士道の美徳を持って欲望、感情を超越して社会に貢献し自分の根源を絶やさず新しい文化を吸収して己の養分とすれば自信、日本人としてのアイデンティティを確立すればよりよい恥じない名誉ある人生となりうるのではないだろうか。

まとめ 

武士道は日本の標章である桜の花に勝るとも劣らない我が国土に根ざした花であり、今も一人一人の日本人に留まる美しい精神である、

個よりも組織を重んじ、自己犠牲の忠義を持って互いに繁栄を心がけた、恥を慎み、名誉ある死を探すことでよりよい人生を構築していける。自身も徳目を養って行き志を高く持ち続けたい。この本を通じて何事も度が過ぎれば美しいものは濁ってしまう。本質を理解し、バランスを保つこと、良いものを吸収することで世界と渡り合っていけるのだと思う。私は武士道は廃れる事がなく永遠に日本人の魂であり続けることを渇望する。