代表的日本人・上杉鷹山編

こんにちは。Legend of Books の熊三です。

日本が欧米列強に肩を並べようと近代化に邁進していた明治時代。日本の精神性の深さを世界に知らしめようと、英語で出版された名著「Representative Men of Japan 代表的日本人」であります。西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮という五人の歴史上の人物の生き方を通して書かれた日本人論です。「武士道」「茶の本」と並んで、三大日本人論の一冊に数えられています。現代に通じるメッセージを読み解き、価値感が混迷する中で目標や志(座標軸)を見失いがちな私達の現代人が、よりよく生きるための主軸を探し出す手がかりとなり得ることになる名著だと思います。今回は代表的日本人の一人封建領主であった上杉鷹山を中心に紹介したいと思います。

「代表的日本人」読書のポイント

1.五人の偉人伝として読まない

代表的五人の日本人と対話するように読む。

2.意中の「ひとり」を探せ

五人全員を等しく読むのは困難である。一人一人向き合い対話しながら読書するのを勧めている。例えばリーダーの素質を磨きたいと思うのであれば上杉鷹山と対話してみたりと自分の立ち位置と合う人物と長くつきあっていくといいのかもしれない。私たちは内村の言葉をたよりに「私の西郷」「私の日蓮」を見つけてよいのです。さらにいえば、私たちはそれぞれ、内村とは全く別な「私の代表的日本人」を書くことすらできるはずです。

3.ライフステージが変わるたびに読む

読者とともに育って行くのが名著である。

学生や死を前にした人であろうとも読むことで新たな発見ができる。

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上杉鷹山の生い立ち

 

 

見るという動詞に注目しよう。

鷹山編は見るという動詞に注目する。見るという動詞は古来「見えないもの」を感じるという意味がある。風を見るや味を見ると言った感覚的見るということである。莫大な負債を抱え込んだ米沢藩主になった鷹山は、はじめて米沢藩に訪れた際に荒廃した村、自然、民の悲惨を見ると絶望に襲われた。すると鷹山は、炭火を炊きあげ消えかけた炭火に辛抱強く息を吹きかけると。脈々と燃え上がってくる火を見て、荒れ果てた米沢藩をこの炭火のように息をもう一度吹きかけ改革していく決意を固めたのであった。ただ眺めて見るのではなく、目に見えない本質を見るということである。本当の原因は隠れていて目に見えるものではない探り当てなければならない。目に見えるものだけ対処してるだけでは本当の改革はできないということである。

天の王国 封建制度

この地上に天の国と言えるような国は存在したのであろう?中国神話の舜帝が治めた殷の国であろうか?唐代の太宗が治めた唐の国であろうか?

天の国を築き上げるには聖人と言われる名君なしではなし得ないことである。鷹山は封建制度の下、天の国を築き上げた。

私どもには進んだ政府機構があるにもかかわらず、天国におよばない点では、十世紀前の祖先の時代とすこしも変わらないように見える。現状は足踏み状態であるもしくは後退の方向に進んでいると発言する賢者もいる。

内村は当時の東南アジアやアフリカの熱帯地域に見られた圧政政治を批判した。

もっとも良い形態は徳のある政治である。

得に代わる制度はないと、固く信じる必要がある。徳がありさえすれば、制度は助けになるどころかむしろ邪魔になる。「進んだ政府機構」とは聖人を助けるためではなく泥棒をとらえるためです。

一種の進んだ警察組織は悪党や泥棒は抑えられるが大勢の警察をもってしても、一人の聖人、一人の英雄にとって変わることができない。一人の聖人が国を治めれば犯罪など警察なしでコントロールできる社会こそ天国なのだと思う。

 

封建制度は欠点もあるが…

明治維新を境に封建制度から立憲制度に変わるとともに日本は大きなものを失った。それは封建制度とともに結びついていた忠義、武士道や人情である。本当の忠義は君主と家臣が直接顔合わせて成り立つものである。その間に制度を入れたとしたら君主はただの統治者にすぎず、家臣はただの人民となりえる。この関係に忠義はない。憲法は争いを解決するのに文章に頼る、昔のように心に頼ることはなくなった。献身の長所は仕えるべきわが君主がいて、慈しむべきわが家臣がいるところに生じる。封建制度の長所は治める者と治められる者の関係が人格的性格におびている点である。その本質は、家族制度の国家への適用である。法律や制度は家族制度における愛の律法にはおよばない。もう一度封建制度が完璧の形で現れるのであればそれこそが理想の政治形態といえる。

人々は皆、同じ父の子でありしたがってともに兄弟であることを知る日が訪れるのであればその時封建制が完璧たる栄光に充ちたかたちで戻り、真のサムライが「敗者をいたわり、奢るものを砕く」日を内村は心から望んだ。

「学問」のいまだ西洋から伝わる前すでにこの国には、平和の道を知り、独自の「人の道」が実践され死を覚悟した勇士がイたのである。

東洋の道徳心は西洋を圧倒している。文明の波に道徳は飲み込まれたが人の心、美徳は永久に死滅せず、いつか利益を貪る戦争がこの世からなくなるのを私自身も望みます。

 

籍田の礼

農業、耕作を励ますため藩主自ら田を耕す儀式

すべてのものは自然からくるもので藩主が民に与えたのでなくすべては大地からくる。藩主もまた大地に仕えている者だと儀式の中で表現した。

鷹山の産業改革

鷹山の産業改革の全体を通じて、とくにすぐれている点は、産業改革の目的の中心に、家臣を有徳な人間に育てることをおいたところです。当時の慣習に全くこだわらず、鷹山は、自己に天から託された民を、大名も農夫もともにしたがわなければならない「人の道」に導こうと志した。

天=大いなるもの

自己に天から託された民は自分勝手に振舞ってはいけないと言うことである。現在の社会に見られる社会から蹴落とされた者たちを能力がないからといって見捨てる事は鷹山の考えにはありえないものであった。「役に立たない」と烙印をおすのはリーダーの目が見えていないと鷹山は訴える。

東洋思想の美徳

東洋思想の一つの美点は経済と道徳をわけない考え方である。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。木によく肥料をほどこすのであれば労せずして確実に結果は実ります。「民を愛する」ならば富は突然もたらされるでしょう。「ゆえに賢者は木を考えて実を得る、小人は実を考えて実を得ない」

1961年第35代アメリカ大統領となったジョン・F・ケネディは、就任の時、最も尊敬する日本人は誰ですかという質問に、迷わず上杉鷹山の名前をあげました。

鷹山の死

この勤勉な節制家の人生は健康に恵まれた70年でありました。若き日の希望はほとんどが叶いました。藩は安定し、民は物に富み、国中が豊かに満たされました。全藩あげても5両の金を工面できなかったのに、今や一声で一万両も集めることができるようになりました。これを成し遂げた人物の最期が安らかでないはずがありません。文政五年三月十九日、鷹山は最後の息を引き取りました。

民は自分の祖父母を失ったかのように泣いた。階層を問わず悲しみその様は筆につくしがたい。葬儀の日には何万人もの会葬者が道にあふれた。合掌し、頭を垂れ、深く嘆き悲しむ声がだれからも漏れた。山川草木もこぞってこれに和したと伝えられています。

山川草木は生きとし生けるものすべてを表しているのである。

 

ピンチは最大のチャンスである。恐れを畏れ(おそ)に変換せよ。

畏れ:ピンチは正体がわからないが大事なものとの出会いがある。

試練を好機ととらえることで、偉大な改革を成し遂げた米沢藩主・上杉鷹山は、まず自らが変わることで、誰もが不可能と考えた荒れ果てた米沢藩の財政を立て直した。「民の声は天の声」という姿勢を貫き、領民に尽くした鷹山の誠意が人々の心をゆり動かした結果である。

 

昨今のビジネス書によく見られがちの上杉鷹山のイメージは節制、コストカットの部分だけ着目して見られるが鷹山自身は情け深く見捨てることのないリーダーであった。

代表的日本人・西郷隆盛編

こんにちは。Legend of Books の熊三です。

日本が欧米列強に肩を並べようと近代化に邁進していた明治時代。日本の精神性の深さを世界に知らしめようと、英語で出版された名著「Representative Men of Japan 代表的日本人」であります。西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮という五人の歴史上の人物の生き方を通して書かれた日本人論です。「武士道」「茶の本」と並んで、三大日本人論の一冊に数えられています。

現代に通じるメッセージを読み解き、価値感が混迷する中で目標や志(座標軸)を見失いがちな私達の現代人が、よりよく生きるための指針を探し出す手がかりとなり得る名著だと思います。今回は代表的日本人の一人西郷隆盛を中心に紹介したいと思います。

「代表的日本人」読書のポイント

  • 五人の偉人伝として読まない

代表的五人の日本人と対話するように読む。

  • 意中の「ひとり」を探せ

五人全員を等しく読むのは困難である。一人一人向き合い対話しながら読書するのを勧めている。例えばリーダーの素質を磨きたいと思うのであれば上杉鷹山と対話してみたりと自分の立ち位置と合う人物と長くつきあっていくといいのかもしれない。

  • ライフステージが変わるたびに読む

読者とともに育って行くのが名著である。

学生や死を前にした人であろうとも読むことで新たな発見ができる。 

ではここから代表的日本人の一人西郷隆盛を描く。同じ幕末、明治の世を生きた西郷隆盛内村鑑三、一方の西郷は江戸城無血開城を実現し明治維新に大きく貢献した。西郷なくして革命はなし得ない。そんな西郷隆盛は内村にとって同時代の英雄であった。そんな内村はまるで聖書にでてくる聖人のように描いて西郷が持つ純粋の意志力との関係が、深く道徳的偉大さを代表的日本人で際立てた。またわが国の歴史からもっとも偉大な人物をあげるとすればためらわずに太閤豊臣秀吉と西郷を選ぶと内村は言う。

西郷隆盛〜新日本の創設者


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1827年に鹿児島の町に生まれる。

(その2年後に名高い同志大久保利通が生まれる)西郷の家は、語るに価するほどの名門ではなく、薩摩の大藩にあっては、わずかに「中等以下」に位置するにすぎなかった。

六人兄弟の長男で動作ののろいおとなしい少年で仲間の間では間抜けで通っていた。しかし遠縁のひとりが西郷の目の前で切腹をする光景を目撃し少年の魂にはじめて義務の意識が芽生えた。若者は成長すると大きな目と、広い肩幅を特徴とする太った男になった。筋肉隆々とし相撲はお気に入りのスポーツでありました。中国思想の陽明学や仏教での禅の思想に関心をいだきヨーロッパの文化には全く無関心であった。また暇ができればたいてい好んで山中を歩きまわる。その習慣は一生続いたのであります。日夜、好んで山中を歩き回っているとき、輝く天から声が直接くだることがあったのではないでしょうか。静寂な杉林のなかで「静かなる細い声」が、自国と世界のために豊かな結果をもたらす使命を帯びて、西郷の地上に遣わせられたことをしきりとささやくことがあったのであります。そのような「天」の声の訪れがなかったならどうして西郷の文章や会話のなかで、あれほどしきりに「天」のことが語られたのでありましょうか。のろまで無口で無邪気な西郷は自分の内なる心の世界に籠もりがちでありましたが、そこに全宇宙にまさる「存在」を見出しそれとのひそかな会話を交わしていたのだと内村は信じた。

静かなる細い声(Still Small Voice)とは

旧約聖書 列王記の本に出てくる一説で預言者に神が語りかけるときの声。

「天」(Heaven)とは

「天」とは神そのものではなく、空(Sky

)ともまた違う。「天」には方向など定まっておらず、大いなるものというべきであろうか、西郷はそんな「天」としきりに対話したのではないだろうか、

天の命と日本の開国

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「天」の命を聞く人、西郷隆盛の章は以下のようにはじまる。1868年の明治維新

日本が「天」の命をうけはじめて青海原より姿を現したとき、「日の本よ、なんじの門のうちにとどまれ、召し出すまでは世界と交わるな」との「天」の指図がありました。

長い鎖国の時代を経て開国に至ったのも天によるものと考えていた内村は、鎖国を非難する外国人を浅はかだと訴えた。世界との交通が比較的開けていたインド、インカ帝国、清国が次々とヨーロッパの欲望の餌食となった、なので鎖国の門を簡単にも開けようものなら凶器をもった強盗に侵されしまうのだ。鎖国を避難するものは戸締まりが厳重な家に入ろうとする強盗がその家を非難しているのと同じであると述べた。

「進歩的な西洋」の無秩序な進歩の抑制

「保守的な東洋」は安逸な眠りから覚まされた。

日本が目覚める前には、世界の一部には互いに背を向けあっている地域がありました。それが日本により、日本を通して、両者が顔を向かい合わせるようになりました。ヨーロッパとアジアとの好ましい関係をつくりだすことは、日本の使命であります。今日の日本はその課せられた仕事に努めているところです。

貪欲に対しては、かたくなに門を閉ざしていた国が、正義と公正戸に対しては、自由にみずから開いたのである。

天命を待つ

待つという動詞に注意して読む

西郷は、待つ人だと評されるが、その「待つという動詞」は単に止まって待っているのでなく、なにかに備えて準備することであり、時間をかけて見識を深めて時機を待つという事である。やるべきことをやる時に「待つ」ことが重要だと西郷は気づいたという。そんな内村の1つ1つの動詞のなかに奥行が見えてくるのだと言う。無欲で控えめ、常に何かを待っていた西郷の姿を内村は絶賛した。

西郷は口論を嫌ったのでできるだけ、それを避けていました。ある時宮中の宴会に招かれ、いつもの平服で現れました。退室しようとしましたが入り口で脱いだ下駄が見つかりませんでした。そのことで誰にも迷惑をかけたくなかったので裸足のまま、しかも小雨のなかを歩きだしました。城門にさしかかると門衛に呼び止められ身分を尋ねられました。

普段着のまま現れたので怪しい人物とされたのでした。「西郷大将」と答えました。しかし門衛はその言葉を信用せず門の通過を許しません。そのため西郷は、雨の中その場に立ち尽くしたまま誰か門衛に証明してくれるものが、出現するのを待っていました。

西郷の私生活についてある人の証言によると

私は十三年間一緒に暮らしましたが一度も下男を叱る姿を見たことがありません。布団の上げ下ろし、戸の開け閉て、その他身の回りの事はたいてい、自分でしました。西郷は人の平穏な暮らしを決してかき乱そうとしませんでした。ひとの家を訪問することはよくありましたが、中の方へ声をかけようとはせず、その入り口に立ったままで、だれかが偶然でてきて自分を見つけてくれるまで待っているのでした。

ひとの家とは

西郷にとってひとの家とは時代であり、藩、それは薩摩藩であり、明治の新政府、仲間にも置き換えることができ自分を必要とされる時を待っている。誰かを待っているその背景には「天」という言葉が宿っている。誰かが偶然見つけてくれるということは「天命」であるということ。

そして、西郷ほど生活に無欲だったものはいないという、閣僚のなかで最有力者でありながら普通の兵士と変わらぬ外見、住居はみすぼらしい建物で、どこでも下駄を履き、宮中の晩餐会であれどこへでも常に現れました。身の回りのことにも無関心な西郷は財産にも無関心であった。財産の大部分は鹿児島ではじめた学校の維持費に用いられた。また贈り物は一切受け取らない西郷であるが趣味である犬の贈り物は熱く感謝して受け取ったという。西郷の犬は、生涯の友であった。

無私の機会

「機会には二種ある。求めずに訪れる機会と我々の作る機会とである。世間でふつうにいう機会は前者である。しかし真の機会は、自生に応じ理にかなって我々の行動するときに訪れるものである。大事なときは、機会は我々が作り出さなければならない

敬天愛人」とは

天をうやまい、人を愛することで、常に修養を怠らず、天をおそれ敬い、人を愛する境地に到達することが大切であるということ。西郷隆盛座右の銘として知られています。

彼の生き方を通して、私利私欲なく生きるときに開かれる強さ自己を超越した大きな存在である魂に寄り添う生き方を求めた。とりわけ「西郷隆盛」の章には内村自身の思想が色濃く反映している、明治維新の立役者であり勇猛果敢さが強調される西郷だが、実は、徹底して「待つ人」だった。真に必要に迫られなければ自ら動かない。しかし一度内心からの促しを感じたなら、躊躇することなく決断し動く。それこそが西郷という人物の真髄だった。それは、折にふれて、「自己をはるかに超えた存在」とそれは天でありまたは己魂の会話を続け、そこに照らして自らの生き方を問い続けた「敬天愛人」という信条から発するものだった。

朝鮮問題・征韓論

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東アジアの秩序を守るためにも時に決して理解のなし得ない争いを生んだとしても、東アジアの征服という目的は当時の世界情勢からして必須のものだったという。日本が、ヨーロッパの列強に対抗するために、所有領土の拡張が必要であり西郷には自国が東アジアの指導者であるという使命感があった。西郷は朝鮮と話をつけるため自らを首席大使に任命するように訴えそれが叶うと子供のように喜んだという。しかしながらちょうどその時、岩倉が大久保や木戸とともに世界を視察し文明が幸福をもたらす実状を見てきたため戦争など考えてなかった。朝鮮使節征韓論」が撤回され、そのやり方に対して人前で怒りの感情を出さなかった西郷も激昂し、閣議の席で辞表を叩きつけた。「文明とは正義の広く行われることである、豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」西郷の言う文明はほとんど進歩を見せなかった

「情のもろさ」・ラストサムライ西郷隆盛の人間らしさ


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入水自殺未遂

西郷はある時、幕府から負われる身である友人であり僧である月照に保護を頼まれました。守りきれないと案じた西郷は、共に死ぬことを提案した。二人は入水自殺を試みた。西郷は奇跡的に一命をとりとめたが、月照は息をひきとった。

友人にたいする人情と親切の証としてみずからの命を惜しまなかった。

江戸城無血開城

勝海舟と現在の東京都にある愛宕山で散歩をしていた。眼下に広がる壮大な都市を見て西郷が勝に問う「我々が一線交えるとこの罪のない人々が我々のせいで苦しむことになる」と伝え、徳川将軍は武器を手放し城を天皇無血開城することに繋がったのでした。

西南戦争 謀反人としての西郷隆盛

桜島

新政府は腐敗していき反乱を企てるものが現れ始めた。その企ての成否は西郷がその反乱に自身の名を貸し影響を与えるか否かでした。困った人々の哀願の前には無力に等しく自己の命をその反乱に差し出し三万の士族を結集させたです。そうして国内最後の内戦である西南戦争が勃発したのでした。西郷自身も時の政府に強い不満はあったにしろ、彼ほど分別のある人間がただの怨恨だけで戦争を始めることは想像し難いのである。反乱は西郷の生涯における大目的が挫折した失望の結果なのかもしれない。わずかの可能性ではあるが成功すれば生涯の目的が果たせると思い西南戦争に臨んだのであろう。1877年9月山県有朋率いるかな官軍の総攻撃が城山に向かって開始され一発の銃弾西郷の腰を打抜き倒れた。遺体は官軍の手におちました。「無礼のないように」と敵将が叫び「なんと安らかな顔のことか」と別の一人が言った。敵味方全体が悲しみにくれ、涙ながらに葬りました。もっとも偉大な人物が激動の世をさった。ラストサムライが日本から去ったのです。

無私は「天」に通じる

天を相手にする

「天を相手にせよ、人を相手にするな、すべては天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足を省みよ」

 

「天はあらゆる人を同一に愛する。えに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない」

「天」には真心をこめて接しなければならなずさもなければその道を知ることはできない。

西郷は人間の知恵を嫌い、すべての知恵は人の心と志の誠によって得られるり。心が清く志高ければ、たとえどんな状況下でおいても乗り越える事ができる。 

「誠の世界は密室である。そのなかで強い人はどこであっても強い」

不誠実とその傲慢たる利己心は人生失敗の大きな要因であると西郷は語る。

「人の成功は自分に克つにあり、失敗は自分を愛するにある」

八分どおり成功しながら残り二分のところで失敗するのは成功がみえると自己愛が生じ、慎みが消え、楽を望み、仕事を厭うから失敗する。

なにかの行動を申し出るときは「我が命を捧げる」気持ちで人生のあらゆる危機と向き合う必要がある。

「命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず」

世の中でもっとも扱いにくい人でありこのような人こそが人生の困難と向き合うことができる人物である。そしてそれが国家に偉大な貢献を果たす。「天」を信じることは己を信じるということ

 

西郷の詩文

私に千糸の髪がある

墨よりも黒い

私に一片の心がある

雪よりも白い

髪は断ち切ることができても

心は断ち切ることができない

 

道は一つのみ「是か非か」心は常に鋼鉄

貧困は偉人をつくり 功業は難中に生まれる

雪をへて梅は白く 霜をへて楓は紅い

もし天意を知るならば、誰が安逸を望もうか

 

地は高く、山は深く

夜は静かに 人声は聞こえず

ただ空を見つめるのみ

 

まとめ

日本史上で西郷ほど志が高く、彼の道徳心は自然と一体になりえた人物は存在したのであろうか。

西郷ほど一人の人間として民から仲間たちから慕われた人間は過去から現在に至るまで誰一人いなかったのではないでしょうか。歴史にもしもはないが、征韓論が可決し、西郷自身が朝鮮国と交渉できたのであれば、和魂漢才に徹した西郷の道徳心、情け深さを持って、当時の欧米列強の植民地化が進んだ東アジア情勢の中で西郷隆盛に匹敵する徳を持った人間は存在したのであろうか、時に強行を辞さない勇気を持った人間はいたのであろうか、東アジアの秩序はいい方向に変わっていたのではなかったか、またどうすれば西南戦争を回避できたのかと私自身空想にふけることもあります。内村自身彼と同時代を生き、交わりさえなかったものの、偉大なる敬意を払い「代表的日本人」の初頭より日本の聖人ともいえる西郷を西洋に紹介したのであろう。「天を相手にしろ」と西郷自身は言う、それは誰も見ていないところでの分別ある行動ができているからどうかであろう、そこから強固たる魂を養い、その魂と自問自答をすることで己を知り、自分の意見を持ち考えて、次の行動が最善だと判断すればそれは正義なのかもしれない。以前に紹介した新渡戸稲造の武士道における武士の精神、美徳をそのまま写したのが西郷隆盛である。「天を相手に」という言葉を胸に刻み一瞬一瞬において実践していきたい。

兼好法師 徒然草

皆さんこんにちはLegend of Books の熊三です。

今回は、人や社会の真実の姿、人生哲学をつれづれなるままに(自由気ままに)綴った日本随筆の傑作である古典から兼好法師徒然草の紹介をしたいと思います。 

 「つれづれなるままに日ぐらしすずりにむかひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば、あやしぶそものぐるほしけれ」 

上記の現代語訳:退屈なので一日中すずりにむかって心に浮かんでくるどうでもいいことも文書に書いたら筆が止まらなくなった。※解釈の仕方は人それぞれである。この文は恍惚感、気持ちが高ぶり筆が止まらない状態である。学生時代古文の授業で暗記させられた人もいるのではないでしょうか?兼好の文脈は合理的かつ、多面的である、時に綴っていることに矛盾が発生したりと軽やかな(飄々とした)作品である。

スピーチに引用されたり、職場での教育につかわれたりあるいは座右の銘として生き方の参考にされたりすることが多いようです。極度の情報化社会の中で、また閉塞した未来にむきあいながら現代の私たちは誠に忙しく生きています。目先の事にとらわれ複雑な人間関係に煩わされ、将来の心配をしながらせせこましく生きているかた必読の書です。

兼好法師の生涯

兼好法師吉田兼好)は、鎌倉時代末〜南北朝の動乱の時代に生きた。

出家前の名は卜部兼好であり、京都にある神社の神職の子として出生しました。幼少期は何にも興味を示す賢い少年でした。8才の時に仏教の真髄について父に問い詰めてみるものの、あまりにも難解な問いかけに父は言葉に詰まり笑ってごまかしたという。

20代になると朝廷に仕えるようになった。そこでは皇位継承や財産をめぐり多くの争いが起きていた。宮司をしながら皇室の暮らしを間近で見ていた。後二条天皇下での宮廷和歌四天王として数えられ、初めは天皇に仕えるため帝王学の教科書として徒然草の随筆をしていった。

30代になると後二条天皇崩御すると出世の道を絶たれ、出家した。それ以降、自分が思うままに徒然草を随筆し庶民向けの書籍へと徐々に変化していった。文を書く才能豊かではあったが彼自身は平凡な人生を送った。器用貧乏とも言えるような人であり神社の宮主にはなれず、皇室では下級貴族の出身で出世の道を絶たれ、出家をするも瞑想とあおがれることなす、職業を転々とし存命中は大成することはなかった。実際、書いた当時は注目されず江戸時代に書かれた注釈書によって注目された。しかしながら、幸いにも何事にも一点に重きを置かなかった事は彼の発想に自由を与え世の中を見通したことで後世で注目を受けた。徒然草現代でいう個人ブログ、ツィーターで投稿したものを寄せ集めたエッセイのようなものであり、時代の流れとともにそのまま埋もれてしまってもおかしくなかった最中、偶然にも発見され奇跡的に名著となった。

第一章 心地よい人付き合いとは?

兼好は、たとえ仲のいい間柄でも、時には改まった態度を示すのが良いと記した。人間関係では、お互い気を遣わなくなった時に落とし穴がある。

人間の弱さを熟知した兼好流の気配り術を学ぶ

「おなじ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違(たが)はざらんと向ひゐたらんは、ひとりある心地やせん。」

現代語訳:同じ心でいられるような人といろんな話をして心慰められるのは嬉しい、しかし世間話でも本音で言い合えるそんな人がいない、相手に逆らわないように演じると一人でいるような孤独を感じる。兼好は友人にはしてはいけない悪き人を述べた。彼にとって下記のような人たちとの交流は気を張ってしまって相容れない存在だったのかもしれない。身分の高い人 若い人 体が丈夫な人酒好き 勇猛な武士 嘘つき 欲深い人であった。

  • 親しき仲にも礼儀あり

たとえ仲の良い友人でも時に改まった行動が必要

「さしたることなくて人のがりゆくはよからぬことなり…(中略)そのこととなきに人の来りてのどかに物語して帰りぬるいとよし」

用もないのに人を訪ねるな、そこに長居するな、しかし人が訪れてきて語り合うのは心地が良い。人がみずから訪ねて来るということは必要とされているということだからであろう。

  • 新鮮な人間関係を保とう

馴れ合いになれば距離をおき、疎遠になると近づいて互いに新鮮な関係を保ちましょうと人付き合いのツボを述べた。また人の心は移ろいやすく永遠に続くことはない、別れはこの世の習わしと説いた。そのことから兼好自身は、無情を悟ろうとするも俗世とのつながりを捨てきれなかった。

「朝夕へたてなくなれたる人のともある時我に心おきひきつくるへるさまに見ゆること今更かくやはなどいふ人もありぬべけれどなほげにげしく良き人かなとぞ覚ゆる」

朝夕隔たりなく慣れた人とともにある時、ふとした時に自分に遠慮している、また相手方がこちらに遠慮してかしこまった様子に見えるのは本当に誠実でいい人だと感じる。世間では今更そんなにかしこまなくてもと思っても私は親しい人が少し遠慮するのはいいと思う。馴れ合いの果てに遠慮のないずうずうしい人間関係に変わるのを嫌った一面、疎遠になった人がまた打ち解けてくれる事を好んだ

「妻といふものこそをのこのもつまじき物なれ女の性は皆ひがめり

女の性根は腐っているから世の男性諸君妻は持つな女性に批判的な言及していると思えば下記の文は女性の魅力についても深く言及していていささか矛盾を感じるのも徒然草ならではの軽々とした

その時々の感想、意見を述べた随筆作品ゆえであろう。

「もし賢女あらばそれも物うとくすさまじかりなむただ迷ひ(血迷い)をあるじとしてかれ(女)に従う時やさしくも、おもしろくても覚ゆべきことなり」

男性は女性の魅力に抗うことができないと言及した。

「その人の心になりて思へば誠に悲からむ親のため、妻子のため、恥を忘れ、盗みもしつべきことなり」

家族愛に触れいいかげんな気持ちで家族を持つなと述べました。 

第二章・上達の極意

  • 人を模倣して世にでろ

上達したいと願う時には、形だけでもいいから達人の真似をすることから始め、人前に出ることを恥じるなと述べた。そして心から大事だと思っていることは、タイミングに関係なく今すぐ舵をきれと述べている。本当にしなければならないことを客観的に見つめる冷静さをもって人生は一瞬一瞬の積重なりであり、同じ事は二度と起きない。毎日に緊張感を持って生きることが、自分を高めることになると兼好は述べた。

「されば一生のうちむねとあらまほしからむことのなかにいづれかまさるとよく思ひくらべて第一の事を案じ定めてその外は思いすてて一事をはげむべし」  

一生はあっという間であれもこれもと欲張って大事なことが後回しになってはいけない、優先順位をもつことが重要だと述べた。

「能をつかむとする人「よくせざらむほどはなまじひに人に知られじうちうちよく習ひえてさし出でたらむこそいと心にくからめ」と常にいふめれどかくいふ人一芸もならひうることなし」 

上手くなるまで人に見せまいとする人は一芸も修得かつ上達できない。

驥(き)を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

一日に千里走る名馬に学べば、その馬は同じように一日千里を走る。聖王の舜(古代中国の皇帝)を真似したら舜と同様の名君になるだろう。偽りでも賢さを真似したら、その人を賢と言うべきだろう。真似でもいいから行動に示せということを述べています。

心は縁にひかれて移るものならば閑かならでは道は行じがたし

人の心は縁に惹かれやすいものだから静かな環境に身を置いて自己鍛錬をするために、環境づくりの大切さを述べています。

あやまちはやすき所になりて必ず仕る事に候

何事も難しい場面では最大限の警戒感を持つが簡単な場面では詰めが甘くなり失敗しやすい。

安心は失敗のもと、そして完璧は破綻の前兆だともいう。

初心の人二つの矢を持つことなかれ

二つの矢を持っているともう一つ矢があるからといって油断が生じる。

勝たむとうちべからず、負けじと打つべきなり

勝つことばかり考えると焦りを生じるので負けないように対策を打つべきである  

  • 上達を志すうえで心がける事

やがてかけこもらましか博打をしからまし後まで見る人ありとはいかでか知らむかやうのことはただ朝夕の心づかひによるべし

品性のある行いを心がけ内面を磨くべし、誰も見ていないところでの美しい行動を保つ。

かしこげなる人も人のうへをのみばかりて己をば知らざるなり我を知らずして外を知るとふ断りあるべからず、されば己を知るをもの知れる人というべし

知識を得るばかりでなく汝を知れ、偏りのない考えを持ち平衡を保つべし。

第三章・世間を見抜け

世の中、いわゆる「世間」というものは、うっかりしていると、あらぬ噂を立てられたり、笑いものにされたり、食い物にされたりする恐ろしいものである。そんな世間にふりまわされて嫌な思いをしないためには、どうしたらよいのだろうか。兼好は、自省を怠らず、自分自身を様々な方角から見つめ直すことを勧めた。世間という目には見えない“魔物”に対峙する心構えを解く。

  • 不幸を招く「知ったかぶり」と「付和雷同

「この御社(みやしろ)の獅子の

立てられやう

定めてならひあることに侍(はべ)らむ

ちと承(うけたまわ)はばらや」

とはいはければ 

「その事に候 さごなきわらはべどもの

仕(つかまつ)りける奇怪に候ふことなり」とて さしよりて 据ゑなほしていにければ

上人の感涙いたづらになりけり 第二三六段

ある上人がその弟子達を連れて丹波の由緒ある神社を訪れたとき、狛犬が背を向けて置かれていた。それを見た上人は何か特別な意味があると豪語した。それに気づかなかった弟子たちをあざ笑い、弟子たちは上人の観察力を褒めるのだが、そこに神官が現れるとそれはただの子供のいたずらで狛犬が背を向けていた事が発覚した。2種類の人間の愚かさを描いたストーリーです。

「知ったかぶり」の上人は自分は教養人だと思い込み弟子たちの目があったのでつい先走った論点を明かしてしまい、一方で「付和雷同(考えもなく他人の意見に同調)」の弟子たちは自分の無知・無教養をさらしたくないと思ったばかりにとこれらの過度の自意識が招いたものである。

世の人あひあふ時 暫くも黙止することなし

必ずことばあり そのことを聞くに

多くは無益の談なり...(中略)

これを語る時 たがひの心に

無益のことなりと いふことを知らず

第一六四段

世間の人は黙ることを知らない、かならず何かしらの会話をしている。それはほとんどが無駄話(陰口、差出口)であるという。お互いそれが無益の事を自覚するべきと述べた。

我らが生死(しゃうじ)の到来

ただ今にもやあらむ

それを忘れて 物見て日をくらす

おろかなることは なほまさりたるものを

第四一段

人はどんなときも死と隣り合わせあるにもかかわらず、世間の人はそのことを忘れて他人をあざ笑っていて愚かであると兼好は述べた。

  • うそは世間の常

愚者の中の戯(たわむれ)だに

知りたる人の前にては

このさまざまのえたる所

詞(ことば)にても顔にても

かくれなく知られぬべし 第百九四段

愚者のちょっとした戯れ事のような嘘をつかれる人の言動やその顔つきは、健全たる判断力のある人の前において嘘をつかれる人もまた愚かであると嘘をつかれる側の人を否定した。 

その対処法として

世に語り伝ふること まことはあいなきにや

多くは皆虚事なり(中略)

筆にも書きとどめぬれば やがてまた定まりぬ 第七三段

世の中にある情報は多くはほとんど嘘だと思えと述べた。またその情報が文字化されてしまうことで世間にそれが定着しさぞ本当の事のように感じ騙されてしまう。

我が智をとりででて 人に争ふは

角あるものの 角をかたぶけ

牙あるものの牙をかみ出すたぐひなり

人としては善にほこらず

物と争はざるを徳とす

他にまさるこのあるは 大きな失なり

第百六七段

知恵を蓄えて判断力を養う必要があるものの、自分の知識に見栄をはり人と争い事を起こすのは角、牙ある動物の獣の争いである。人として善に誇らず他人と争わないことを美徳としよう、他人よりも勝ることは多大なる過失である。

 

兼好は自分を賢いと思うことが愚かなことであると述べた。知ったかぶりや陰口を言う人、自分のほうが優位に立っていると思い込んでいる人、自分の能力に自惚れている人たちは自分が主役でないと気がすまないので嫉妬してみたり、議論に挑んでみたりと徳のある人は獣の争いは避けている。世間はうぬぼれと見栄の集合体である

第四章・人生の楽しみ方

 

命は人を待つものかは 無常の来ることは

水火の攻むるよりも速やかに

のがれがたきものを その時 老いたる親

いときなき子 君の恩 

人の情捨てがたしとて 捨てざらむや

第五九段

無常は死を指し死は人間の都合を待ってはくれず突然と来る、水や火が襲ってくるよりも速く逃れることはできない。

万(よろず)の事は頼むべからず

(中略)

寛大にして きはまらざる時は

喜怒これにさはらずにして

物のためにわづらはず

第二一一段

全ての事は当てにならないが卑屈になることなく心を広く持つと喜怒に左右されることなく外の物に煩わされることもない。

 

 

 

新渡戸稲造 武士道

すこんにちは。Legend of Books の熊三です。

今回は日本人の考え方の原点を紐どき、世界に日本人の美徳、正義を知らしめた新渡戸稲造の代表作である「武士道」を紹介します。

新渡戸稲造というと多くの方々は、2007年まで発行していた5000円札肖像画を脳裏に思い浮かぶのではないでしょうか?またハリウッド映画の大ヒット作「Last Samurai」の主役を演じるトム・クルーズも新渡戸の原作のアメリカにて発行されたBushido を参考にして役に徹したそうです。

新渡戸稲造の生涯

1862年現在の岩手県南部藩士の子として生まれる若年の頃より海外に興味を抱き「太平洋の架け橋になりたい」と夢を抱きました。

アメリカ・ドイツと留学を経て、留学時には西洋の古典を読み漁った。帰国後、農政学者として札幌農学校をはじめ多くの学校で教壇に立ちました。アメリカ人女性と結婚し、農学校を休職して米国西海岸のカリフォルニア州で転地療養した。

この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本及び日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年に『武士道』の初版が刊行した。やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。後の1920年には国際連盟事務局次長を務めました。そこで世界の平和に尽力した。

Bushidoの発行の経緯

  • 海外からの日本人の印象は野蛮なものであった

当時海外から切腹や人切りが日常にある野蛮な国として知られていた。幕府による封建制度のもと、どの国々よりも平等に保たれているとされ日本ユートピア論が出されたり、金の国ジパングと海外から完全に誤認されていた。

  • 日本人の道徳のあり方について

新渡戸がドイツに留学した際、ある学生に問いかけられた。日本は宗教教育がないなかでどのように道徳を学んでいるのかと新渡戸は戸惑いながら答えるも腑に落ちなかった。

またアメリカ人妻にも日本人の魂について、行き過ぎた礼儀正しさについてよく問われた事でBushido 出版の経緯となった。

そこで日本人の美徳は世界に通じる普遍的なものであり新渡戸は西洋の人々にわかりやすく伝えるためギリシャ神話、シェークスピアの題材を引用し、類似点と比較しつつ武士道を紹介しました。

武士道とは

そもそも武士とは

10世紀頃から出現した用心棒や戦闘を職業とする集団で日本にて武士が長い間支配階級に位置した。武士の生き様として個人は国家のためのもしくはその正当な権威を掌握するものの為に生き、また死なねばならなかった。

  • 武士道とは戦士が日常生活の中で行う義務・掟

武士道は西洋におけるノブリス・オブリージュ(仏・高貴な身分に伴う義務)だと述べた。

  戦う者としての武士が明日をも知らぬまさに無情の 現実の中で自覚してきた人間の生き方でありまたは死に方であった。武士のいう死の覚悟とは、仏教の説く悟りそのものとは違ってあくまで世俗の中での心の持ち方であり、戦闘に従事する者の心構えである。それは一面では生命への執着を残しながらも死に直面したときにうろたえない心がまえである。こうした死の覚悟をなしうる根底には、無常観が働いていることはいうまでもない。

しかし彼らは無常を感じながらも、名や恥といった名誉をことさら重んじ、主従関係を中心として徳目を養い、人間関係を否定することはなかった。むしろ、日常的な雑念や欲望を無常観によって夢・まぼろしと受け止めることによってより純粋におのれの名誉や主君のために生き死ぬべく心がけたのである。

武士は世間からの注目を集める存在

江戸時代になると、武士の地位は最上位に位置した。それは国民の10%にしか満たない役職であり日頃から注目の的、その生き様が庶民の手本となった。そこで恥をさらさないよう、自分自身も名誉を得るために下記の徳目を養う必要があった。

義(勇・智・仁)・礼(信・仁)の徳目の先に

忠(名誉・歴史に名を残すために)

 戦場で主君の目の前で討ち死にすることが一番の武士にとっての名誉であった。死を恐れず命をかけて忠義を持って主君を守るために義・礼を中心に下記の全ての徳目を実行する必要がある。

 義とは不正を憎む精神・正義感である。義は人間の骨格とも例え、人は才能があっても義がなければ世の中に立つことができない。義があれば無骨で不調法であっても武士たる資格はある。まさしく義を養うことが武士にとって理想の姿であった。しかしながら頭の中で義を理解できたとしても、勇(気)を持って行動する必要がある。己の正義感を人前で発揮することは勇気ある行動が必要となる。(英)智を用いて人間の洞察力を養的確な判断力を養う。さらにを持って武士の情けで慈悲の心を持って政治を行うことで忠義を果たす。

 礼は社会的な地位、秩序に対する従順さである。をもって誠実であることを指す。

また、「武士に二言はなし」とは武士道の信条から生まれた言葉であります。 

「喜怒色にあらわさず」感情は顔に出さず何があっても動揺せず平常心を保つことで武士の美徳が磨かれる。

名誉とは

 上記の徳目を日頃の努力によって養い、主君に忠義を果たすことにより武士にとって名誉となる。名誉は人生の最高の善として貴ばれた、富や知識だけでなく、名声こそが青年の追求すべき目標であった。大阪夏の陣では、主君の目の前で戦死をとげることが名誉とされ、武士たち獅子奮迅と戦った戦死は最大の功名ともなった。これ以降江戸時代に入ると封建制度の下、平和の世が続き切腹での死が武士の理想の罪滅ぼしとなった。 名誉は武士にとっての面目、外聞であり一番の功績である

桜は武士道

ヨーロッパ人はバラを好む。

鮮やかな色彩と濃厚な香り、バラはその美しさの下にとげを隠し持つ。朽ち果てる時は生に執着するかのごとくこの屍を枝の上にさらす。

日本人は桜を好む。

淡い色彩とほのかな香りその美しさの下には刃も毒も隠していない。散り際の潔さはまさに死をものともしない。

 

切腹 名誉たる日本人の責任のとり方

世界が驚愕した武士のしきたり。

 切腹は武士にとって名誉ある責任のとり方であり新渡戸は決して野蛮たる行為ではないと紹介しました。ここで切腹がどのように誕生したのかと歴史を紐どいてみたいと思います。

 時は平安時代の末、壇ノ浦の戦いは平家の滅亡を決定づけた源平合戦のクライマックスであります。敗色が濃厚となった、平家側の平時子安徳天皇を抱き上げ三種の神器とともに入水して自ら命を絶った。

 その後、源義経の平家の滅亡、公家達により認められた功績に兄の源頼朝は妬み、謀反の罪をかぶせた。義経奥州藤原氏を頼って岩手県にある平泉に亡命するも頼朝に売られ、とうとう死に追い詰められた。逃げ場を失い、武士たる者は潔く切腹するものだとみずからの腹を切ったことで源義経が起源とされる。また後世の千利休切腹赤穂浪士47人の切腹は彼らにとって名誉たる上での死に様だったのであろう。さらには武士が刀や槍などの魂といえるものを置き忘れなどあった場合は切腹に値するほどの過失ともなりました。

 鎌倉時代以降、切腹武家社会の確立とともに定着し江戸時代末期の大政奉還がなされるまで切腹は武士にとって名誉たる死でした。明治の新政府の制作の下、切腹と敵討の制度は刑法法典の発布とともに存在理由を失った。もはや美しい娘が姿を変えて親の敵の跡を追う、ロマンティックな冒険を耳にすることはなくなった。と新渡戸は無念の内を明かした。

腹の中を見せることができる戦士としての度量

切腹は法律上ならび礼法上の一つの制度であり、それは中世に発明された武士が罪を償い、過ちを詫び、恥を免れ、友を救い自己の誠実を証明する行為であった。

また、新渡戸は軽々しく死ぬことで名誉を手に入れようとした武士を批判した。

「命は廉価だった、それは世間の名誉の基準で測っても安いものであった。」

そんな軽々しく刀を抜いた武士たちに新渡戸は生きることは死ぬことよりも難しいことがあると言及した。

「死を軽んずるのは勇気の行為である、しかし生が死よりもさらに恐ろしい場合にはあえて生きることが真の勇気である」

武士の本音…死への恐怖はある

武家諸法度では喧嘩両成敗が制定されており相手を切ったら自分も切られる、刀を抜いたら相手を切るとき。喧嘩を買うにも命がけ、売るのも命がけであった。そこで常に死の恐怖と向き合わせていた。また切腹をすると財産の没収など免れるものの妻などは未亡人となりそのことも武士は危惧していた。

日本人の精神は異常なのか?

「私が望むのはしばしば冷酷なあるいは笑いと憂鬱のヒステリックな混合であるかのような外観を呈し、時には正気さえ疑われることすらある。日本人の心の働きの真相を示す事ができる」

※呈する ていする 示す、明らかにする

特に下記の行動に対して外国人に不快感を与えているという。

1.恐ろしくおかしいほど遠慮をする日本人。

ある時、傘を持たない外国人女性が傘を指した日本人の友達と偶然出くわし、会話をはじめると日本人は傘をしまいずぶ濡れになりながら話したという逸話がある。

2.度が過ぎるほど謙虚な日本人

贈り物をするときなぜつまらないものを送るのかと自分が差し出す贈り物を過小評価する日本人、それと相容れて他の国々の人々は素晴らしいあなたにふさわしい贈り物を用意したと箔をつけて渡す。日本人は相手が中心として海外の人々は自分を中心に贈り物を贈ると新渡戸は説いた。 

3.謎のほほえみ、泣いているのにほほえみ

日本人は不幸に遭い、先ほどまで泣いていたにもかかわらず、目を赤めながらも笑顔で応対する日本人は異常だというまた日本人が苦痛に耐えかつ死に対して無頓着なのは神経が鈍感だからという人もいた。それに対して新渡戸は説いた。

「私たちにあっては、笑いは逆境によって乱された心の平衡を回復しようとする、努力を隠す幕だからである、悲しみや怒りの均衡をとるもの」

日本人はどの民族に劣らないほど優しい

本当の礼とは他人の気持ちを思いやる心の表れである「礼は私たちが泣く者とともに泣き喜ぶ者とともに喜ぶことを要求する」と新渡戸は世界の読者にわかりづらい日本人の本当の気持ちを伝え日本人は克己をもった美徳と民族であると強く訴えたのであった。 

克己 己に打ち勝つ

自分の感情を抑えて悲しみ、苦しみを耐え忍んで己を克服する他人に自分の感情を見せない、自己抑制、理念に自分をささげる精神。

武士道の光と影・日本の未来

武士道は日本の近代化の原動力となった。

明治以降、封建制度の下、ガラパゴスな状態であった日本は類を見ない速度で欧米列強と肩を並べるほどに成長したのは武士道の精神が宿ってイたからであった。「劣等国と見下されることを容認できない、名誉の感覚、それこそがもっとも強い動機であった財政や産業上の考慮は改革の過程において後から目覚めたのである」こうして純粋で武骨な精神を持った日本のみが近代的な西洋の文化を自発的に吸収したためアジアで随一の発展を遂げたのである。

太平洋戦争を迎えると武士道の精神を兵士に注ぎお国のために未来の子どもたちへ日本を残すために多くの青年たちの命が無惨にも散っていった。

戦後は民主主義の時代となり、武士道の精神はGHQより危険分子とされ教育などが見直され、忘れ去られて行くも、日本人の心底にはいつまでも廃ることのない武士道、自己犠牲の精神が健在した。主君やお国に変わり会社に忠義を尽くした結果、一度は焼け野原となった日本が高度経済成長を引き起こし80年代後半には世界第一の経済大国となった。しかし90年代になると武士道精神に影がかかってきたのであるインターネットの発達によりグローバル化が劇的に進み、時代を変化させた。ものづくり大国であった日本はこの勢いに圧倒され経済も低迷し失われた20年を迎え今やアメリカや中国に経済覇権を牛耳られてしまった。

行き過ぎた完璧主義と謙虚さ(羞恥)の美徳が悪徳となった…例えば英語学習者の多くは完璧を求め、完璧でなければ恥をかくと羞恥がまさりアウトプットを行わず、成就せずくすぶっている学習者も少なくはないのであろうか。また空気を読めという同調圧力の下、自分だけが周りから突出することを恐れてしまう。度の過ぎた武士道精神は現在の国際社会では通用しないかもしれないが新渡戸は「完全に絶滅することが武士道の運命ではありえないその光と廃墟を超えて長く生き延びるであろうその象徴となる花のように四方から散った後もなす人生を豊かにするその香りで人類を祝福するのであろう」と日本人にとって武士道は永久不滅の美徳であると未来の我々に残した

古き良き武士道の美徳を持って欲望、感情を超越して社会に貢献し自分の根源を絶やさず新しい文化を吸収して己の養分とすれば自信、日本人としてのアイデンティティを確立すればよりよい恥じない名誉ある人生となりうるのではないだろうか。

まとめ 

武士道は日本の標章である桜の花に勝るとも劣らない我が国土に根ざした花であり、今も一人一人の日本人に留まる美しい精神である、

個よりも組織を重んじ、自己犠牲の忠義を持って互いに繁栄を心がけた、恥を慎み、名誉ある死を探すことでよりよい人生を構築していける。自身も徳目を養って行き志を高く持ち続けたい。この本を通じて何事も度が過ぎれば美しいものは濁ってしまう。本質を理解し、バランスを保つこと、良いものを吸収することで世界と渡り合っていけるのだと思う。私は武士道は廃れる事がなく永遠に日本人の魂であり続けることを渇望する。

福沢諭吉 学問のすすめ

学問のすゝめを読んで

 皆さんこんにちは、Legend of Books の熊三です。日本に生まれたのであれば誰もが知っているであろう福沢諭吉慶應義塾の創設者でもあり、なにより一万円冊に堂々と肖像画として印写され日本の学問に多大な影響を与えた功績を持った人物であります。私自身は一万円冊をゆきちと呼んでみたり、 “ろんきち”と揶揄してみたりと学問のすすめを一読する前まではとても福沢諭吉に対し軽率でありました。

※2024年デザイン変更に伴い渋沢栄一肖像画が変わると言われています

福沢諭吉の顔を私の脳裏に描く事ができたとしても、また学問のすすめの著書の名前は歴史や倫理での授業で簡単に触れはしたものの、福沢諭吉の具体的な功績などについては全くの皆無といっても過言ではなかった。

 学問のすゝめを読み進めると私にとって耳が痛く、息苦しくなるようなメッセージがたくさん詰まっております。

「知識を活用できない者は国のためには無用の長物だ」 

論語知らず」

「文字の問屋」

言葉のボディーブローを浴びました。

自分の心の原点(志)を見つけ、気力が湧いてくる本であるので是非大変長々とした文面ですが興味を持ってもらえたのであれば一読していただけると幸いです。

福沢諭吉の生涯

適塾(旧緒方洪庵邸)

諭吉は1835年に、現在の大分県中津市にあたる当時の豊前中津藩にて下級武士の息子として生まれました。生まれてまもなく父親を亡くし母子家庭として苦労を重ねた。

幼少期 東洋思想の原点

幼少期の頃より漢学と一刀流の両方を学ぶ文武両道な青年へと育っていきます。

当初読書が苦手だった諭吉先生は難読である儒学を読み進めていくにあたり、読書の魅力に取り憑かれ『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという
この頃に和魂漢才(日本の魂をもって漢学の学びに力を入れる)の精神かつ思想の源流は亀井南冥や荻生徂徠から培われていきました。

青年期 西洋文化と諭吉

 19歳になった諭吉は、長崎にて遊学。そこで蘭学を学びました。

 翌年に諭吉は、緒方洪庵適塾にて学び、そこの塾長となり、生理学や医学、物理学や化学にも触れ始めました。

23 際の頃江戸に出て、慶應義塾大学の起源となる蘭学の家塾を築地に開きます。

その翌年、諭吉は横浜を見物した折に、オランダ語が役に立たないことに落胆しつつも、これからは英語の時代だと学習に取り掛かった。その後幕府の遣米使節団に志願し渡米、ウェブスター辞書を持ち帰りました。

帰国後は幕府で翻訳家として、幕府に雇われるようになった後に再び使節団の一員としヨーロッパへ渡航し西洋の政治の仕組みを学びました。

『西洋事情』の出版

3度の欧米視察の経験を経て、諭吉先生が実際に目にしたレディーファーストの概念を始め、意見の異なる人たちを尊重する考えについて 計10巻に及ぶ『西洋事情』の著書を記すにあたり、西洋の政治、議会、学校、新聞、病院など、日本に西洋の概念を広めました。平等と自由に象徴されるアメリカの文化は諭吉に衝撃を与えました。20万部を超えるベストセラーとなり海外事情に通じた第一人者として名を馳せるようになる。

諭吉は1868年に大政復古の大号令が発令された後、新政府入りを固辞した、築地の蘭学塾の名前を慶應義塾と改め、自由と平等を重んじた教育を推し進めた。

  • 1872年『学問のすゝめ』が大ヒット

そして360万部の売上を記録し、当時の人口比から見て10人に1人は手にしているほどの大ヒット作となり諭吉先生の名も日本全国津々浦々までに知られました。国民の意識改革に寄与しました。

 

 

中年期

諭吉は40代前半になっても、演説の重要性を唱え、自宅で集会を開いて演説討論の練習を始めました三田演説会の結成や民間雑誌の発刊、また東京府会議員にも選出されるなど、勢力的な活動を続けます。

そして40代後半になった頃には、現在の日本学士院にあたる東京学士会院の設立と同時に初代会長に選出されました。諭吉は政府の機関新聞紙の引き受けを頼まれたりするなど、対外的にも重要な人物として認められていきます。

晩年

60代に入った諭吉は、もっぱら子どもや家族を連れ立った旅行にいそしみます。 しかし1901年、68歳の時に脳出血等を患い、三田慶應義塾内の自宅で死去しました。恐らく若い頃からの大の酒、たばこ好きが原因だったのではと。。

一概に言えませんが。。

学問のすすめの時代背景。

江戸時代の末に神奈川県横須賀市浦賀沖にペリー率いる黒船が来航した、アメリカだけでなくロシアなどの欧米諸国が開国、不平等条約(半植民地状態)の締結をを強く促した。幕府が開国を承諾したことにより日本が侵略を受けずに発展していくためには貿易立国になる必要があった。また同時期に中国(当時の清)はアヘン戦争の敗北を仕切りに次々と欧米列強(英、独、仏、葡、露)の植民地と化した。あの眠れる獅子と呼ばれた清がいとも簡単に欧米列強の食い物とされた背景を抱え、また実際に黒船を見た幕末の志士達はこれまでにない恐怖感、焦燥感に駆られたといいます。

 

 これらの事から新政府を樹立して国を1つにまとめあげる(政治機能の中央集権化)、富国強兵をかかげ諸外国との徹底抗戦または領土の防衛する必要性を強く認識しました。それから間もなく薩摩藩長州藩を筆頭に倒幕に踏み切りました。大政奉還が行われ、約260年間におよぶ幕府の支配が終焉を迎えました。明治維新が行われ、日本にとって幕府に完全支配されていた国民一人一人がこれ以上ない時代の変化対応せざるえなくなりました。また、同時に欧米列強と肩を並べるには、国民一人一人に対する教育に加え意識の変化、志をもたせる必要がありました。

 

 明治維新後の大きな変化として、1871年廃藩置県が実施された事により幕藩体制が廃止されました。その結果、士農工商における身分の序列が崩壊し、それに続くように秩禄処分が行われ失業者が急増しました。江戸時代では一世風靡した武士という身分は廃止の方向に一気に舵を切りました。幕藩体制下では最上階級の武士、低い階級に属した商人、新体制の下すべての国民が同等の地位となりました。これは新政府の掲げたスローガンである四民平等であります。これらの出来事は、低い身分であった国民にとって一種の革命となり、生活を豊かにするまたとない千載一遇のチャンスが巡ってきたのでありました。

 

 激動の時代の変化中、多くの人々は戸惑いを隠せずにいました。そうした状況下にて学問のすすめを出版しそこで諭吉先生は、「すべての人間は生まれながらに平等である」 

 

アメリカ独立宣言の一文を自らの言葉を置き換えて「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」生まれた時は誰しも平等である事、また人々の意識に住みついていた封建制度からの脱却した社会が訪れたと、混乱期にこそ学問が必要な旨を読者に説いた。

思想家としての諭吉

 諭吉は幕府の遣欧米使節に3度参加し、本の翻訳を通じて啓蒙思想に精通していきました。

啓蒙思想

18世紀ヨーロッパで全盛を迎えた理性の啓発によって伝統的な権威や旧来の思想を批判することで、人間生活の進歩や改善を図ろうとする思想の事であります。中世的なカトリック教会に縛られた思想、学問、社会を、実践的、進歩的、合理的に学問を行うことにより社会を変えていこうという現代社会にも連続してるといえる思想なのです。

明治のはじめ、西洋の「文明」思想を紹介し、古い封建的な制度や思想を批判したのは明六社という団体に集まった啓蒙思想家たちであった。諭吉はその代表的な思想家である。

和魂洋才の思想

「東西の人民、風俗を別にし、情意を殊にし数千百年の久しき、おのおのその国土に行なはれたる習慣はたとえ利害が明らかになるものといへども、頓にこれを彼に取りてこれに移すべからず」

意味:東西の人民は風俗も心情も異なっている。

数千百年に渡って、それぞれの国土で培われた習慣は、たとえ良し悪しのはっきりしたものでも、簡単に移し変えられるものではない。

それぞれの国にはそれぞれの歴史があり、風習があり、それぞれが整合性をもって機能しています

別のところから持ってきて接ぎ木することは、一見良さそうなことだけれども、うまくはいかないですよ、ということです。

諭吉は洋行の体験の当時の日本の状況に対する深い認識をふまえて西洋に比べ東洋・日本にかけているものは、学問の精神と独立の精神の2つであるとしてこの2つの精神を中心に啓蒙しようと努めました。

学問の精神とは

その学問が「数理学」ともいわれているように、実証的な方法と合理的な思考にもとづいた近代科学(science)の精神であり同時にそれは「人間普通日用に近き実学という日常生活の実際に役立つ実用的・実利的な精神でもあった。

 

学問で人生を切り拓け
実際の社会には格差の存在が付き物である。

「賢人と愚民との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」

実学のすすめ

当時の階級闘争を勝ち残り人間個人の差を埋めるものは学問であるが、ただ盲目に勉強に打ち込むのではなく、己の生活の一瞬一瞬おけるすべてが学問であり実生活にてそれらの教訓を活かしてはじめて学びと言える。さらには学問の必需性は個人だけの問題に収まらず、国民が無能であれば国家の発展、もしくは欧米列強の格好の餌となってしまうことを厳しく追求したのでした。

自分の頭で考える

自分の頭で物事を考えることで判断力を培う事ができる。強靭な判断力を養うことができれば自分の考えのブレを抑え、確固たる信念を持つことが可能であろう。

独立の精神とは

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」

人は、みな生まれながらにして天から等しく人権が与えられているという天賦人議論に基づく個人の自由・独立を尊重する独立自尊の精神ある。

「自分にて自分の身を支配して他によりすがる心なき」精神、みずから物事の是非を判断して正しい判断ができるような精神、学問の精神と切っても切れない関係にあります。

独立自尊で生きよ  

「一身独立して、一国独立する」

個人の独立を経過し、やっとの事で一国として他国と渡り合える。諭吉先生と論じた。

 

精神的独立とは
自分にて自分を支配し他によりすがる心なきをいう。他者に支配されてしまうと精神が空白のままであり自分の価値観がなく支配されている状態。

独立心がないと卑屈になりそれがクセになり本性となる。

独立気力なきものは必ず人に依頼する

人に依頼するものは必ず人を恐る

人を恐るる者は必ず人にへつらうものである

常に人を恐れ人にへつらうものは次第にこれに慣れ、そのツラの皮鉄のごとくなりて恥づべきを恥ぢずなりて、恥づべきを恥ぢず、論ずべきを論ぜず、人さえ見ればただ腰を屈するのみ。

諭吉の求める独立心とは

人間交際(society)人間関係における生きた関係を構築することで独立ができる。
およそ世に学問といい、政治というも、みな人間交際のためにするものにて、人間交際がなければ学問は不要である。

人間交際を活発にする方法

弁舌を学ぶ(話し言葉をうまく活用せよ)
顔色容貌を快活にすること(上機嫌を保つ) 
交際を広く求めろ(閉じない)
演説で弁舌を学び人の顔色はなほ家の門戸のごとしさまざまな交流の中で知識や意見を交換することで社会全体が活発となる。

独立した人間のあり方
ミッション意識の下、社会に貢献し一人一人が使命感を持った社会。

人の為に行動をする、それは私利私欲を満たす為に行動するのではなく、社会への奉仕を日頃から行う事で独立した個人が社会の中でつながりつつチーム(社会)の一員として役割を担っていく。行動して得た経験のなかで独立自尊の精神が形成されていくのではないでしょうか。

国と渡り合える人物であれ

「お上頼みではあかん」

江戸時代、人々は封建制度と比較的に平和な時代を生き、完全幕府に頼り切っていて個々が己の意見を一切持たず信念たるものが失われてしまった。激動の明治維新を乗り越えても人生における活発さ、気力が失われ一向に指示待ちのまま

「人民の卑屈不信の気風は依然として旧に異ならず」

と諭吉先生は呆れ混じりに言います。

欧米視察の際、現地で人々が堂々と政治のあり方を討論し、最大限の知恵を振り絞り独自の意見を遠慮や躊躇なく述べている情景が諭吉先生に衝撃を与え、欧米諸国における著しい発展の根本をつかんだのです。

欧米諸国と肩をならべるためには

慶應義塾にて諭吉先生は演説をすることを推し進めます。しかしながら、日本では和をつつしみ、自分の思いを高々と伝えようとしても人と意見を食い違うことを極端に恐怖心を持ちます。また当時の賛同を得る方法は書面によるのでした。当然のごとく生徒達も戸惑い焦ります。まずは人前で堂々と話す落語や僧侶の説法を説く姿を参考にしながらひと目のつかないところで練習していくことを勧めました。※ひと目につかないよう川に船を浮かべて演説した生徒もおるようです。

 

演説をする上で5つのステップを踏んで実践するように諭吉は説きました。

  1. 観察 物事をよく観察して本質を見抜け
  2. 推理 物事の道理を推理して己の意見を持て
  3. 読書 知識や情報の蓄積を怠るな
  4. 討論 仲間と知識の交換、見聞を広く持つ
  5. 演説 知識の総括、己の正しいと思った事は演説する。  

人々が互いに意思伝達をすることで社会的に結びつき、集団の意思形成を行う場をつくることに尽力したのです

現代で学問のすすめを実践する 

 最後に明治時代に発行された書籍はどう活きるのか私個人の意見を下記にまとめました。

 インターネットの発展により、ありとありふる情報が得られるようになった、当時と比較し何不自由のない快適な生活が過ごせるようになった反面、そうした数あふれる情報を得ることで人間個人の考え方、生き方も相違して人間交際のあり方、情報の取捨選択において複雑化し極まりなく多忙の生活が強いられているのではないでしょうか。そこで学問を通じて見識を広く持ち自分で積極的に考え、時に悩み、確固たる判断力を形成し、時に人と討論をし他に支配されない(欲望なども含め)独立精神を持って社会と渡り合う必要が、あるかと思います。また諭吉先生は学門の要は活用にあるのみと解きます。私自身身近の事で食品や添加物について、また自己の健康を維持する日常的な科学的分野の学びも必要不可欠なのかと感じます。

「お上頼みではあかん」現代を生きる私達にとって年金がもらえるかなど心配がつきまとうのも政府に頼り切っているからこそ形成される考えなのかもしれない。江戸時代も現代と同様、平和な時代であった、諭吉先生の言うように個人が独立していないため、現在もなお当時の半独立国のままであります。私自身がどのように社会に貢献できるか未知数ではありますがまずは諭吉先生の言う演説までのステップを着実に踏み入れ自分の価値観、考えを世に発信していく所存であります。

少しでも興味を持っていただき一読して頂き大変喜ばしい限りでございます。多くの方々が私のように学門のすすめに興味をもっていただきいつの日にか討論できたら幸いであります。

これからも世にあふれる名著を当ブログにて更新していく所存でありますので更新した際には立ち寄り頂けたらと存じます。日々学問に打ち込みよりよい人生を共に切り開きましょう。