福沢諭吉 学問のすすめ

学問のすゝめを読んで

 皆さんこんにちは、Legend of Books の熊三です。日本に生まれたのであれば誰もが知っているであろう福沢諭吉慶應義塾の創設者でもあり、なにより一万円冊に堂々と肖像画として印写され日本の学問に多大な影響を与えた功績を持った人物であります。私自身は一万円冊をゆきちと呼んでみたり、 “ろんきち”と揶揄してみたりと学問のすすめを一読する前まではとても福沢諭吉に対し軽率でありました。

※2024年デザイン変更に伴い渋沢栄一肖像画が変わると言われています

福沢諭吉の顔を私の脳裏に描く事ができたとしても、また学問のすすめの著書の名前は歴史や倫理での授業で簡単に触れはしたものの、福沢諭吉の具体的な功績などについては全くの皆無といっても過言ではなかった。

 学問のすゝめを読み進めると私にとって耳が痛く、息苦しくなるようなメッセージがたくさん詰まっております。

「知識を活用できない者は国のためには無用の長物だ」 

論語知らず」

「文字の問屋」

言葉のボディーブローを浴びました。

自分の心の原点(志)を見つけ、気力が湧いてくる本であるので是非大変長々とした文面ですが興味を持ってもらえたのであれば一読していただけると幸いです。

福沢諭吉の生涯

適塾(旧緒方洪庵邸)

諭吉は1835年に、現在の大分県中津市にあたる当時の豊前中津藩にて下級武士の息子として生まれました。生まれてまもなく父親を亡くし母子家庭として苦労を重ねた。

幼少期 東洋思想の原点

幼少期の頃より漢学と一刀流の両方を学ぶ文武両道な青年へと育っていきます。

当初読書が苦手だった諭吉先生は難読である儒学を読み進めていくにあたり、読書の魅力に取り憑かれ『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという
この頃に和魂漢才(日本の魂をもって漢学の学びに力を入れる)の精神かつ思想の源流は亀井南冥や荻生徂徠から培われていきました。

青年期 西洋文化と諭吉

 19歳になった諭吉は、長崎にて遊学。そこで蘭学を学びました。

 翌年に諭吉は、緒方洪庵適塾にて学び、そこの塾長となり、生理学や医学、物理学や化学にも触れ始めました。

23 際の頃江戸に出て、慶應義塾大学の起源となる蘭学の家塾を築地に開きます。

その翌年、諭吉は横浜を見物した折に、オランダ語が役に立たないことに落胆しつつも、これからは英語の時代だと学習に取り掛かった。その後幕府の遣米使節団に志願し渡米、ウェブスター辞書を持ち帰りました。

帰国後は幕府で翻訳家として、幕府に雇われるようになった後に再び使節団の一員としヨーロッパへ渡航し西洋の政治の仕組みを学びました。

『西洋事情』の出版

3度の欧米視察の経験を経て、諭吉先生が実際に目にしたレディーファーストの概念を始め、意見の異なる人たちを尊重する考えについて 計10巻に及ぶ『西洋事情』の著書を記すにあたり、西洋の政治、議会、学校、新聞、病院など、日本に西洋の概念を広めました。平等と自由に象徴されるアメリカの文化は諭吉に衝撃を与えました。20万部を超えるベストセラーとなり海外事情に通じた第一人者として名を馳せるようになる。

諭吉は1868年に大政復古の大号令が発令された後、新政府入りを固辞した、築地の蘭学塾の名前を慶應義塾と改め、自由と平等を重んじた教育を推し進めた。

  • 1872年『学問のすゝめ』が大ヒット

そして360万部の売上を記録し、当時の人口比から見て10人に1人は手にしているほどの大ヒット作となり諭吉先生の名も日本全国津々浦々までに知られました。国民の意識改革に寄与しました。

 

 

中年期

諭吉は40代前半になっても、演説の重要性を唱え、自宅で集会を開いて演説討論の練習を始めました三田演説会の結成や民間雑誌の発刊、また東京府会議員にも選出されるなど、勢力的な活動を続けます。

そして40代後半になった頃には、現在の日本学士院にあたる東京学士会院の設立と同時に初代会長に選出されました。諭吉は政府の機関新聞紙の引き受けを頼まれたりするなど、対外的にも重要な人物として認められていきます。

晩年

60代に入った諭吉は、もっぱら子どもや家族を連れ立った旅行にいそしみます。 しかし1901年、68歳の時に脳出血等を患い、三田慶應義塾内の自宅で死去しました。恐らく若い頃からの大の酒、たばこ好きが原因だったのではと。。

一概に言えませんが。。

学問のすすめの時代背景。

江戸時代の末に神奈川県横須賀市浦賀沖にペリー率いる黒船が来航した、アメリカだけでなくロシアなどの欧米諸国が開国、不平等条約(半植民地状態)の締結をを強く促した。幕府が開国を承諾したことにより日本が侵略を受けずに発展していくためには貿易立国になる必要があった。また同時期に中国(当時の清)はアヘン戦争の敗北を仕切りに次々と欧米列強(英、独、仏、葡、露)の植民地と化した。あの眠れる獅子と呼ばれた清がいとも簡単に欧米列強の食い物とされた背景を抱え、また実際に黒船を見た幕末の志士達はこれまでにない恐怖感、焦燥感に駆られたといいます。

 

 これらの事から新政府を樹立して国を1つにまとめあげる(政治機能の中央集権化)、富国強兵をかかげ諸外国との徹底抗戦または領土の防衛する必要性を強く認識しました。それから間もなく薩摩藩長州藩を筆頭に倒幕に踏み切りました。大政奉還が行われ、約260年間におよぶ幕府の支配が終焉を迎えました。明治維新が行われ、日本にとって幕府に完全支配されていた国民一人一人がこれ以上ない時代の変化対応せざるえなくなりました。また、同時に欧米列強と肩を並べるには、国民一人一人に対する教育に加え意識の変化、志をもたせる必要がありました。

 

 明治維新後の大きな変化として、1871年廃藩置県が実施された事により幕藩体制が廃止されました。その結果、士農工商における身分の序列が崩壊し、それに続くように秩禄処分が行われ失業者が急増しました。江戸時代では一世風靡した武士という身分は廃止の方向に一気に舵を切りました。幕藩体制下では最上階級の武士、低い階級に属した商人、新体制の下すべての国民が同等の地位となりました。これは新政府の掲げたスローガンである四民平等であります。これらの出来事は、低い身分であった国民にとって一種の革命となり、生活を豊かにするまたとない千載一遇のチャンスが巡ってきたのでありました。

 

 激動の時代の変化中、多くの人々は戸惑いを隠せずにいました。そうした状況下にて学問のすすめを出版しそこで諭吉先生は、「すべての人間は生まれながらに平等である」 

 

アメリカ独立宣言の一文を自らの言葉を置き換えて「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」生まれた時は誰しも平等である事、また人々の意識に住みついていた封建制度からの脱却した社会が訪れたと、混乱期にこそ学問が必要な旨を読者に説いた。

思想家としての諭吉

 諭吉は幕府の遣欧米使節に3度参加し、本の翻訳を通じて啓蒙思想に精通していきました。

啓蒙思想

18世紀ヨーロッパで全盛を迎えた理性の啓発によって伝統的な権威や旧来の思想を批判することで、人間生活の進歩や改善を図ろうとする思想の事であります。中世的なカトリック教会に縛られた思想、学問、社会を、実践的、進歩的、合理的に学問を行うことにより社会を変えていこうという現代社会にも連続してるといえる思想なのです。

明治のはじめ、西洋の「文明」思想を紹介し、古い封建的な制度や思想を批判したのは明六社という団体に集まった啓蒙思想家たちであった。諭吉はその代表的な思想家である。

和魂洋才の思想

「東西の人民、風俗を別にし、情意を殊にし数千百年の久しき、おのおのその国土に行なはれたる習慣はたとえ利害が明らかになるものといへども、頓にこれを彼に取りてこれに移すべからず」

意味:東西の人民は風俗も心情も異なっている。

数千百年に渡って、それぞれの国土で培われた習慣は、たとえ良し悪しのはっきりしたものでも、簡単に移し変えられるものではない。

それぞれの国にはそれぞれの歴史があり、風習があり、それぞれが整合性をもって機能しています

別のところから持ってきて接ぎ木することは、一見良さそうなことだけれども、うまくはいかないですよ、ということです。

諭吉は洋行の体験の当時の日本の状況に対する深い認識をふまえて西洋に比べ東洋・日本にかけているものは、学問の精神と独立の精神の2つであるとしてこの2つの精神を中心に啓蒙しようと努めました。

学問の精神とは

その学問が「数理学」ともいわれているように、実証的な方法と合理的な思考にもとづいた近代科学(science)の精神であり同時にそれは「人間普通日用に近き実学という日常生活の実際に役立つ実用的・実利的な精神でもあった。

 

学問で人生を切り拓け
実際の社会には格差の存在が付き物である。

「賢人と愚民との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」

実学のすすめ

当時の階級闘争を勝ち残り人間個人の差を埋めるものは学問であるが、ただ盲目に勉強に打ち込むのではなく、己の生活の一瞬一瞬おけるすべてが学問であり実生活にてそれらの教訓を活かしてはじめて学びと言える。さらには学問の必需性は個人だけの問題に収まらず、国民が無能であれば国家の発展、もしくは欧米列強の格好の餌となってしまうことを厳しく追求したのでした。

自分の頭で考える

自分の頭で物事を考えることで判断力を培う事ができる。強靭な判断力を養うことができれば自分の考えのブレを抑え、確固たる信念を持つことが可能であろう。

独立の精神とは

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」

人は、みな生まれながらにして天から等しく人権が与えられているという天賦人議論に基づく個人の自由・独立を尊重する独立自尊の精神ある。

「自分にて自分の身を支配して他によりすがる心なき」精神、みずから物事の是非を判断して正しい判断ができるような精神、学問の精神と切っても切れない関係にあります。

独立自尊で生きよ  

「一身独立して、一国独立する」

個人の独立を経過し、やっとの事で一国として他国と渡り合える。諭吉先生と論じた。

 

精神的独立とは
自分にて自分を支配し他によりすがる心なきをいう。他者に支配されてしまうと精神が空白のままであり自分の価値観がなく支配されている状態。

独立心がないと卑屈になりそれがクセになり本性となる。

独立気力なきものは必ず人に依頼する

人に依頼するものは必ず人を恐る

人を恐るる者は必ず人にへつらうものである

常に人を恐れ人にへつらうものは次第にこれに慣れ、そのツラの皮鉄のごとくなりて恥づべきを恥ぢずなりて、恥づべきを恥ぢず、論ずべきを論ぜず、人さえ見ればただ腰を屈するのみ。

諭吉の求める独立心とは

人間交際(society)人間関係における生きた関係を構築することで独立ができる。
およそ世に学問といい、政治というも、みな人間交際のためにするものにて、人間交際がなければ学問は不要である。

人間交際を活発にする方法

弁舌を学ぶ(話し言葉をうまく活用せよ)
顔色容貌を快活にすること(上機嫌を保つ) 
交際を広く求めろ(閉じない)
演説で弁舌を学び人の顔色はなほ家の門戸のごとしさまざまな交流の中で知識や意見を交換することで社会全体が活発となる。

独立した人間のあり方
ミッション意識の下、社会に貢献し一人一人が使命感を持った社会。

人の為に行動をする、それは私利私欲を満たす為に行動するのではなく、社会への奉仕を日頃から行う事で独立した個人が社会の中でつながりつつチーム(社会)の一員として役割を担っていく。行動して得た経験のなかで独立自尊の精神が形成されていくのではないでしょうか。

国と渡り合える人物であれ

「お上頼みではあかん」

江戸時代、人々は封建制度と比較的に平和な時代を生き、完全幕府に頼り切っていて個々が己の意見を一切持たず信念たるものが失われてしまった。激動の明治維新を乗り越えても人生における活発さ、気力が失われ一向に指示待ちのまま

「人民の卑屈不信の気風は依然として旧に異ならず」

と諭吉先生は呆れ混じりに言います。

欧米視察の際、現地で人々が堂々と政治のあり方を討論し、最大限の知恵を振り絞り独自の意見を遠慮や躊躇なく述べている情景が諭吉先生に衝撃を与え、欧米諸国における著しい発展の根本をつかんだのです。

欧米諸国と肩をならべるためには

慶應義塾にて諭吉先生は演説をすることを推し進めます。しかしながら、日本では和をつつしみ、自分の思いを高々と伝えようとしても人と意見を食い違うことを極端に恐怖心を持ちます。また当時の賛同を得る方法は書面によるのでした。当然のごとく生徒達も戸惑い焦ります。まずは人前で堂々と話す落語や僧侶の説法を説く姿を参考にしながらひと目のつかないところで練習していくことを勧めました。※ひと目につかないよう川に船を浮かべて演説した生徒もおるようです。

 

演説をする上で5つのステップを踏んで実践するように諭吉は説きました。

  1. 観察 物事をよく観察して本質を見抜け
  2. 推理 物事の道理を推理して己の意見を持て
  3. 読書 知識や情報の蓄積を怠るな
  4. 討論 仲間と知識の交換、見聞を広く持つ
  5. 演説 知識の総括、己の正しいと思った事は演説する。  

人々が互いに意思伝達をすることで社会的に結びつき、集団の意思形成を行う場をつくることに尽力したのです

現代で学問のすすめを実践する 

 最後に明治時代に発行された書籍はどう活きるのか私個人の意見を下記にまとめました。

 インターネットの発展により、ありとありふる情報が得られるようになった、当時と比較し何不自由のない快適な生活が過ごせるようになった反面、そうした数あふれる情報を得ることで人間個人の考え方、生き方も相違して人間交際のあり方、情報の取捨選択において複雑化し極まりなく多忙の生活が強いられているのではないでしょうか。そこで学問を通じて見識を広く持ち自分で積極的に考え、時に悩み、確固たる判断力を形成し、時に人と討論をし他に支配されない(欲望なども含め)独立精神を持って社会と渡り合う必要が、あるかと思います。また諭吉先生は学門の要は活用にあるのみと解きます。私自身身近の事で食品や添加物について、また自己の健康を維持する日常的な科学的分野の学びも必要不可欠なのかと感じます。

「お上頼みではあかん」現代を生きる私達にとって年金がもらえるかなど心配がつきまとうのも政府に頼り切っているからこそ形成される考えなのかもしれない。江戸時代も現代と同様、平和な時代であった、諭吉先生の言うように個人が独立していないため、現在もなお当時の半独立国のままであります。私自身がどのように社会に貢献できるか未知数ではありますがまずは諭吉先生の言う演説までのステップを着実に踏み入れ自分の価値観、考えを世に発信していく所存であります。

少しでも興味を持っていただき一読して頂き大変喜ばしい限りでございます。多くの方々が私のように学門のすすめに興味をもっていただきいつの日にか討論できたら幸いであります。

これからも世にあふれる名著を当ブログにて更新していく所存でありますので更新した際には立ち寄り頂けたらと存じます。日々学問に打ち込みよりよい人生を共に切り開きましょう。